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229 中国の三面記事を読む(16) 林徽音と徐志摩 《上》

http://cul.sina.com.cn/s/2004-06-09/61233.html  林徽音与徐志摩

近現代文学史上、“林徽音”というこの名前は“徐志摩”という名前によって存在し、名高くなったといえる。 私も徐志摩から林徽音を知り、その後、林徽音から梁思成のことを知ったわけだ。 大部分の読者も私と同じではないかと思う。 そうして見ると、梁思成にはちょっと可哀相な感じもして、私は同情してしまう。 (実際、梁啓超の息子として梁思成は、1949年以降、中国建築界の創始者となり、当代きっての建築学部-----清華大学建築学部は梁思成がつくったものである。 しかし、彼は文学をしなかったため彼の名前を知る人は少ない)

徐志摩も名門の出身で、今風に言うなら資本家出身。 彼の父親・徐申如は、浙江省硤山鎮の大金持で、有名な銀行家である。 父親の希望もあって徐志摩が家業を継ぐことになっていた。 それで西洋に留学する時、経済学を学ぶことにしていた。 しかし程なく、経済に向いてないとわかり、文学家と付き合うようになり、次第に経済学は疎かになった。

間もなく中途退学し、ヨーロッパ各国を巡り歩いた。 ロンドンで、有名な書道家であり詩人の林長民が来ているのを聞き、訪問して教えを請おうとした。 そこで図らずも林徽音とめぐりあい、たちまち恋に陥ることになり、後世文学史研究家達に格好の研究課題を提供することになる。

林徽音と出会った時、徐志摩は2歳の子供の父親だった。 24歳の彼は林徽音より8つ年上で、お兄さんといったところだ。 その時、彼の妻・張幼儀と子供はロンドンに一緒に来ていた。 徐志摩が何度も猛アタックをしたことにより、林徽音の固い防御が決壊寸前になったとき、彼女は徐志摩にこう言った。 “私はいい加減なことはきらいです。 私か張幼儀か、どちらか選んでください” ロマン主義的な徐志摩は、家へ戻ると張幼儀に離婚を切り出した。 張幼儀は突然のことではあったが、理知的に対応し、すぐさま子供を連れてドイツへ留学してしまった。 《徐申如は息子が妻と子供にこのようなことをしたと聞いて、怒って父子の関係を絶つと宣言して送金をストップし、銀行の仕事と財産を張幼儀に主管させることにした。 これ以降、この徐家の息子は自分の手で生活しなければならなくなった。 張幼儀の一番上の兄は張君勵といい民国初めの政界の大物、二番目の兄は張嘉敖は当時の政府の中央銀行総裁だった》

林徽音は第三者ではあったが、この結果は深刻なものがあった。 実際は徐志摩も第三者となる。 というのは林徽音がこの後間もなく梁思成と婚約するからである。 ここで面白いのは、父親の林長民が娘と徐志摩の間を認めておきながら、自分が可愛がっていた娘を梁家の息子にやるという約束を、すっかり忘れていたことである。

林徽音、徐志摩の親密な時期は長続きしなかった。 林長民がヨーロッパ周遊から戻ると、彼女は父親について帰国することになる。 徐志摩が追っかけるように帰国したときには、林徽音はすでに梁思成と婚約していた。 徐志摩は梁啓超の学生でもあったので、先生の前では自分の感情を抑えるしかないではないか? しかし、陸小曼に会う前の徐は、一途に林徽音を思っていた。 それで、いつも梁、林家の常連客となっていた。

梁思成、林徽音はアメリカに行った。 が、しょっちゅう喧嘩し、激しく言い争った時に、林徽音は中国の徐志摩に手紙を送った。 そんなことだから徐志摩は林徽音に対し、ずっと淡い幻想を抱いていた。 梁思成、林徽音が勉強を終えて帰国し、東北大学で教授になった頃から、林徽音は身体を悪くし、北京の西山で一時期療養していた。 梁思成は傍にいなかった。 この時期、彼はひんぱんに西山に林徽音を見舞った。 この時のことで、後世の研究家は徐志摩と林徽音の関係が、もう一線を越えたと見る向きもあるが、はっきり証明することができない。 だから、徐志摩と林徽音の気持ちがどこまでいっていたのか、今に至るも未解決の謎となっている。 ほどなく、徐志摩は北京の舞踏会で、夫のいる陸小曼と知り合う。 徐志摩は、今度は陸との結婚に踏み出す。 

徐志摩は結婚したが、決して幸福ではなかった。 というより不幸だった。 友達によくこぼしていた。 その相手は、胡適や林徽音、凌叔華などだった。 1931年、徐志摩が事故(飛行機)で亡くなるまで

続いた。 林徽音は、1931年と1934年、それぞれ徐志摩を追悼する二編の文章を書き本心を述べている。

徐志摩が林徽音に与えた影響は大きいもので、もし徐志摩がいなければ、林徽音が文学をするなんてことはなかっただろう。 またロンドンで知り合った時、徐志摩は林徽音によく詩を書いて見せた。 林徽音の子供である梁従誠は“林徽音文集”の中で、林徽音は子供達に自分の口からこう語ったと言っている。 徐志摩は多くの詩を林徽音に送った。 一番有名なのは“偶然”。 しかし、私達が“偶然”を読んでも、どうしても林徽音に書いたようには思えない。 それは徐志摩が林徽音という存在に対し、こんなにおおらかだったことがなかったからだ。 もちろん、もし徐志摩の影響がなかったとしたら林徽音は、建築方面でもっと成功を収めただろう。 

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