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226 中国の三面記事を読む(14) 京都・奈良を空襲から守った中国人・梁思成 ⑥ 梁思成の夫人:林徽音

林徽音(1904-1955)10 08

中国の福建省閩の人。 1904年6月10日杭州に生まれる。 建築家、教授、詩人、作家。 才気ある女性で美人。 若い時の林徽音の写真を見ると、すがすがしい輝くばかりの笑顔をしている。 

父親・李長民は芸術家でロマンチスト。 その父の教育により林徽音は早い時から一種の芸術気質を身につけており、それに生来早熟で聡明な女の子だった。 1916年北京培華女子中学に入る。 1920年、彼女は父親に連れられてロンドンに行った。 そこのセントメリー女子学院(St. Mary’s Collegiate School)に入学、すぐ流暢な英語を話した。

林徽音は、小さい時から父親とを共に暮らしていたので、中外の有名人、知識人との応対はしょっちゅうで、正に家の女主人のように振舞っていた。 この社交活動から林徽音は、付き会い方、起ち居振る舞いなどを身につけたので、男性の注目を引き付けていた。 一番関心を持ったのは、誰かというと詩人の徐志摩だった。 その頃彼女より10歳近く年上の徐志摩は、この女の子の聡明さと光るものに引き付けられた。

彼女の文学の才能に、このケンブリッジの詩人は傾倒し、たちまちその虜になってしまった。 彼女と一緒の時には、英国詩人のシェリー(Shelley)、キーツ(Keats)、バイロン(Byron)、バージニアウルフ(Virginia Woolf)などの作品の世界を案内していた----------が、林徽音の前では自分の気持ちを抑えられなくなっていた。 妻の張幼儀と離婚し子供を捨てても構わない。 林徽音を精神的伴侶としたいと望んだ。

その時、彼女はまだ16歳だった。 林徽音は、結婚していた徐志摩に対し、終始一線を画していた。 

もう一人は梁思成だった。 梁啓超の息子。 梁啓超と林徽音の父親は親密な間柄で、二人は子供が小さい時に、冗談で娘をやると言っていたほどの仲だった。 梁思成は林徽音同様、建築に興味を持っていて1924年、二人は共にアメリカのフィラデルフィア・ペンシルベニア大学に留学し、梁思成は建築を専攻、林徽音は美術を学んだ。 お互いの専攻学科は緊密な関係にあった。 ところが二人の性格と気性は全く正反対だった。 梁は生まれつき融通が利かないほうで、型どおりの堅物タイプ。 仕事もいい加減なことは許さない。 一方、自由を愛し空想好きの林徽音は、ことごとく違っていた。 何かパッと思いつくたちで、規律を破ることはしょっちゅうだった。 設計図の提出期限ぎりぎりまで頑張ってもできなくって、梁思成がいつも手助けし林徽音のメチャクチャな下書きをきれいな設計図に仕上げていた。 相互補完的な二人の性格は、この時期に磨きをかけられ、それぞれの特質となっていった。

林徽音が才女であることは、嘘ではない。 彼女は学校の宿題をほとんど一番の成績を取っていた。 まれには二番のこともあったが。 友達から見た彼女はしとやかで、ユーモアがあり控え目で、自分の成績の良いことを自慢することはなかった。 林と梁は、1927年ペンシルベニア大学を卒業した。 本来、四年の学業を三年で終えてしまった。 1928年、二人はオタワで結婚した。

林徽音は、中国の古い時代から新しい時代へ変わる時代のインテリ女性だ。 小さい時から西洋の教育を受け、外国で自由な生活を送った。 そして、結婚して帰国してからは、妻として母として一家を切り盛りし、家の中のどんなことも彼女が決定した。 家の中では、彼女は良妻賢母で梁思成を煩わせることはなかった。 家庭をきちんと守ったほか、同時に建築の図面や詩歌の創作もやっていた。 ただ、日々の暮らしの中では雑事が多く、いつも人のためにあれこれ相談に乗ることが多かった。

林徽音の身体は磁気を帯びてるみたいで、周りの人がみな吸い寄せられ、みんなが彼女に思いのたけを話し、彼女のそばにいると安心に思えた。

作家の蕭乾が初めて彼女に会ったときのことをこう書いている。 “--------この人の肺病は、相当悪いと聞いていた。 その当時の肺病は今の癌のように恐ろしいものだった。 私はてっきり寝巻き着て、横になったまま私と会うんだろうと思っていた。 しかし、その日の彼女は乗馬服で、話もよくしゃべり、早口で、元気そうだった--------私が受けた印象は、彼女からは病気なんてまったく感じなった。 健康な人よりはるかに元気で口も達者だった。 みな彼女のことを“お嬢様”と呼んでいたが、口をすぼめてにっこり笑う、ただのお嬢様ではなく、学識豊かで頭の回転が速く、舌鋒鋭い評論家だった”

病気の時の林徽音でさえこのように印象が強いのに、まして健康な時の彼女はどうだったろう。

この才能のある夫婦は、相次ぐ戦争の中、生活は困窮を極めていた。

林徽音はベッドで過ごすようになった。 病院のベッドに横になっている彼女は病気のことで人に弱音を吐くことはなかった。 逆に、暇をもて余している時、病院の建築を観察しては自分の見解を書いたりしていた。 この女性の建築に対する鋭敏な反応と愛情が見て取れる。 また、気分がいい時には詩興が湧くみたいで、よく詩を書いて投稿していた。

ロマンチックな気持ちは変わらなかった。

以前、ある若い女性が林徽音をこう形容した。 “--------彼女はあんなによくしゃべり冗談を言う、私はしょっちゅう「クックッ」と笑うだけで、もう口なんか挟めない。 彼女は私が今までお会いした人の中で一番きれいで、風格がある方です。 もちろん、私がお会いした時には、彼女は40をいくつか越しておられ、病魔に苦しめられのようになっておられました。 でも一旦彼女と向き合うと実体の林徽音は見えなくなります。 感じるのは彼女の心と知識と美しい光。 私はしばしば彼女のこの素晴らしさにうっとりしていました----------”

女性がもう一人の女性を褒めることは、そうあることではない。 ましてやこれは梁思成の二番目の奥さんになる林洙のいった言葉である。 彼女は林徽音に対し嫉妬ではなく、心から素晴らしいと思った。 林徽音の魅力にあったことがわかる。 ただこの女性は、生きている時は、周りの人のためにばかり気を使って、自分の才能を十分に発揮することができなかった。

林徽音《深夜里听到乐声》(深夜に楽しい声を聞く)

生命早描定她的式様

太薄弱

是人們的美麗的想像----------

(彼女の命の図面はとっくに描かれていた 

弱弱しく

人々が美しく想像する----------

1955年4月1日、林徽音は持病の肺結核のため死亡、死去した時、50を過ぎたばかりだった。

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