« 222 中国の三面記事を読む(11) 京都・奈良を空襲から守った中国人・梁思成 ③ もう一つの物語 | Main | 224 中国は見る(118)  中国 やはり靖国には行くなでした! »

223 中国の三面記事を読む(12) 京都・奈良を空襲から守った中国人・梁思成 ④ もう一つの物語 《続》

粱思成先生的故事 中国住宅与房地产信息网2003-06-12  摘自建筑知识2003-01 王铭珍

梁思成は清末の変法維新(1898年)の指導者・梁啓超の長男。 清華大学教授、北京市都市計画委員会副主任、政治協商会議副主席を歴任。

天安門広場の人民英雄紀念碑の建築設計、中南海懐仁堂の修復や中華人民共和国の国章のデザイン設計などに中心的に関わった。

ある時、彼は学生達に笑いながら言った。 “諸君、私は今、背中が曲がりコブがあるけれど、昔はマーヨハン先生の一番弟子だったんだ! 有名なサッカー選手で、全校の運動会では棒高跳びでも一位。 鉄棒、平行棒などの腕前もずば抜けていたんだ。 ハハ、やめにしよう。 英雄は昔の自慢話を言わないものだ”

マーヨハン先生は清華大学体育部の有名な教授で、梁思成はマーヨハン先生の愛弟子でありスポーツ選手でもあった。 では何が原因で、梁思成先生は身体を壊し、背中が曲がりコブが出る障害を負ってしまわれたのか? 

学生時代の梁思成はオートバイが好きだった。 彼は卒業後アメリカへ留学しようと考えていた。 1929年5月7日、その日、天安門広場で学生運動が行われると聞き、オートバイに弟の梁思永を乗せ、清華大学を出発、西直門を抜け、四牌楼、西長安街を突っ走った。 その当時の西長安街は、現在のように広くはなく、真ん中はデコボコした道だった。 その時予想外のことが起こった。 オートバイが南長安街の南の入口にさしかかった時、後ろから来た自動車に追突され転倒してしまった。 梁思成は左足骨折、脊椎の骨も損傷を受けてしまった。 梁思永は顔面を負傷、顔中血だらけになっていた。 その当時の北京各紙は、この交通事故を大きく報道した。 事故を起こしたのは、軍閥・金永炎の運転手だった。 車は人をはねた後、現場から逃走した。 警察はこの車が軍閥の金永炎の所有で、事故が起こった時本人が車に同乗していたことを掴みながら、本件の容疑者を追及できなかった。 事故後、梁思成の家へ謝罪にも訪れず、思成の母親は怒って総統府へ乗り込み公正な対応を求めた。 その後軍閥の金永炎は、世論の圧力に押され副官を梁家に赴かせ謝罪した。 梁思成は負傷直後、協和医院で治療を受けたが、当時の医療技術や設備はまだ整っておらず、梁思成の脊椎の骨と足の手術はうまくいかなかった。 その結果、彼の脊椎の骨は彎曲し、背中が曲がり、左足は1センチ短くなってしまった。 その後、梁思成の靴は特注されることになった。

梁思成先生は気力のある方で、このような重い障害を負いながら各地の調査研究を続けられ、古代建築の測量と製図のため梁の上まで上ろうとされた。

梁思成 天寧寺に惚れ込む

梁思成先生は歴史的建造物の専門家で、以前にも仏塔も含めて多くの文化財の調査を行っている。 天寧寺は北京最古の寺の一つである。 北魏・孝文帝元年(西暦471年)に創建された。 彼は天寧寺に何度も訪れ、天寧寺の塔にも上り実地の測量をした。 寺内の仏塔は高さ57.8米で、国内外でも有名な舎利塔で文化財指定の価値がある。 彼の経験からすると、この仏塔は遼代に多く見られるもので、我国の他の省にもこれに似たスタイルが見られるという。 塔の上の方は庇が重なりあっていて、各層の距離は短く、2階以上の階層は下からはほとんど見ることができない。 第一層の塔は重要な部分で、大体は仏壇で、仏像や窓枠、軒を支える枡組み、動植物の模様などの彫刻が施され、仏教と建築芸術が渾然一体となっている。 これらから、梁思成先生は天寧寺は遼時代に建造されたと断定した。 この判断は我国考古学の専門家達も一致して認めている。

天寧寺に関しては歴史文献では隋の建造とされてきた。 乾隆皇帝さえも天寧寺は、隋代の建築との言葉を残されている。 梁先生の考証によれば、天寧寺はもともとは確かに隋代の仏塔があった。 しかし、隋代の仏塔は木造の仏塔で防火対策がされていなかった。 その後、火事のため木造の仏塔は焼けてしまった。 遼代になってこの基礎の上に、レンガ造りの仏塔が再建された。 防火能力が強化されたので、その後の何度かの火災にあっても仏塔はビクともしなかった。 しかし仏塔付近の仏殿、経蔵などは焼けてしまった。 “長安客話”という本の中に、“寺は元末に戦乱で焼けつくす”と書かれている。 元代の終わりの頃、天寧寺が戦火で焼けた記録である。 梁思成先生は、天寧寺のことがことのほか気に入られ、天寧寺には音楽の音符のような仕組みがある、古代建築設計の傑作だ。

法隆寺焼失を惜しむ

梁思成先生は、小さい時日本で十数年生活しておられ、日本の古い建築物の状況についても詳しかった。 ある時、新聞のニュースが目に留まった。 日本の千年の古刹・法隆寺が火災により全て焼失したと報じていた。 彼はとても残念がった。 

日本の友人・清水正夫が中国を訪れ梁思成に会いに来た時、彼は矢も盾もたまらず訊いた。 “法隆寺は完全に焼き落ちたのですか? 修復の可能性はないんですか?” 清水正夫は“なんとか修復できるでしょう”

梁思成はそれを聞いてホッとした。

数年後、清水正夫がまた訪中した。 梁思成先生は彼が泊まっていた北京飯店を訪れ、また法隆寺金堂の修復問題について訊ねた。 清水正夫が、法隆寺金堂はもう完全に修復され、しかも焼け残った木材も使用していると言った時、梁先生は非常に喜んだ。 “火事の痕跡を残していたら、後の人への警告になる” 

|

« 222 中国の三面記事を読む(11) 京都・奈良を空襲から守った中国人・梁思成 ③ もう一つの物語 | Main | 224 中国は見る(118)  中国 やはり靖国には行くなでした! »

中国関係」カテゴリの記事

TrackBack

TrackBack URL for this entry:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/88988/9387456

Listed below are links to weblogs that reference 223 中国の三面記事を読む(12) 京都・奈良を空襲から守った中国人・梁思成 ④ もう一つの物語 《続》:

« 222 中国の三面記事を読む(11) 京都・奈良を空襲から守った中国人・梁思成 ③ もう一つの物語 | Main | 224 中国は見る(118)  中国 やはり靖国には行くなでした! »