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251 中国の三面記事を読む(30)  本木雅弘 《夜・上海》で趙薇と共演

2006-04-24 12:00:24 《夜・上海》开机司机赵薇相遇日本化妆师

来源:网易娱乐 网友评论3

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《夜・上海》 タクシー運転手“趙薇”《チャオ・ウエイ=ヴィッキー・チャオ》が日本の美容師“本木雅弘”と出会う。 日中合作の映画《夜・上海》が、先日上海でクランク・イン。 撮影は順調。 この映画は、日本のカリスマ美容師が上海の街中で道に迷っている時、女のタクシー運転手に偶然出会い、二人の間に思わぬ展開が繰り広げられる物語。

 

映画に出演するのは趙微と“シコふんじゃった”で人気の本木雅弘。

 

映画製作者が紹介したところによると、《夜・上海》の台本を趙薇のマネージャーが先に読んで感動し、趙微に薦めたところ、彼女も通読して深く気に入ったという。

趙薇自身が女主人公の性格は自分と非常に近く、初めて自分本来の演技ができると述べている。 

 

《夜・上海》は、趙薇と本木雅弘以外には、中国側は、郭品超、李森、冯砾、 日本側は、《白い巨塔》の西田尚美と《東京日和》の竹中直人などの俳優が出演する。

 

《夜・上海》の監督は、都市のラブロマンスで定評のある、張一白監督。

 

張監督によれば、映画は男女の主人公がそれぞれ気持ちが落ち込んでいる時、思いがけず出会う。 言葉の壁を乗り越え、相手を理解し、相手を助けようとする物語。

張監督の説明では、《夜・上海》の話は、決して一目ぼれの漠たる話ではなく、現実生活の中で夢を見つける話だそうです。

 

《参考》 趙薇 (チャオ・ウエイ:ヴィッキー・チャオ)

 

生年月日: 1976年3月12日

出  身: 安徽省

    : 北京電影学院

出演映画: 92年 「画魂」

      94年 「女児谷」

      96年 「東宮西宮」

      99年 「縁! 妙不可言」

      00年 「決戦紫禁之嶺」

      01年 「少林足球」(少林サッカー)

      02年 「夕陽天使」「天下無双」

      03年 「緑茶」「炮制女朋友」「天地英雄」(ヘブン・アンド・アース)「玉観音」

      05年 「情人結」 

 

出演テレビ:96年 「姐姐妹妹北京」

      97年 「康熙微服私訪記2-桂園記」「還珠格格」

      98年 「老房有喜」「還珠格格

      00年 「侠女闯天関」

      01年 「情深深雨濛濛」

      05年 「京華雲」

「緑茶」:(現在恵比寿:東京都写真美術館ホール〔03-3280-0098〕で上映中―5/19まで:月曜休館:ただし5/1は上映:連日11:00 13:00 15:00 17:00)

 

 

 

 

 

 

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250 中国の三面記事を読む(29)  尤敏(ユウ・ミン)  

今週の週刊新潮(5月4・11日ゴールデンウイーク特大号)で、宝田明が共演女優についていろいろ述べているが、その中に香港女優「尤敏」(ユー・ミン)のことが出てました。 私の若き日のアイドル、今は亡き「尤敏」を追悼し、その生涯を追って見ました。

尤敏 (ユー・ミン)Photo

生年月日:1936年 8月19日Youmin

没年月日:1996年12月29日

本 籍:広東

出生地:香港

映画受賞歴

第7回アジア映画祭最優秀主演女優賞《1960年》

第1回台湾映画金馬賞最優秀女優賞 《1962年

尤敏の本籍は広東花県、本名は畢玉儀、1936年8月19日、香港で生まれ、マカオの聖心中学で学ぶ。 彼女の父親は当時有名な劇の名優白玉堂。 尤敏は幼いときから父親に徹底して芸を教えられ、9歳のときには父親と一緒に劇《黄飛虎伝》の舞台に立つ。 これがその後の銀幕の基礎となる。 尤敏の演技の才能は外部の人の目にも留まり、16歳の時、邵氏影業公司に招かれ、1952年《玉女懐春》を撮る。

しかし、残念なことに事情があって、この映画は公開されなかった。

その後、この映画から“玉女”(美しい女性)と縁ができ、玉女役の映画を主演したばかりか、何でも玉女という称号をつけられ、香港中国映画唯一のアイドルスターとなり、映画界に“玉女”伝説を残した。 玉女というように、もちろん外観も清楚で清純、明るくさわやか、正に天性の麗質が、尤敏の美貌スターへの道を歩ませた。 一作目は未公開だったが、間もなく《明天》に出演、この映画が尤敏の公開第一作の映画となった。 尤敏が邵氏で働いた時間はそう短くはない、7年ほどの間に、彼女が出演した映画は20数本、二番目の会社は僑光電影公司、しかし、そこはわずかに立ち寄っただけで、1958年7月、国際電影懋業有限公司(略称電懋)に入る。 電懋に入ってから、尤敏の俳優活動はめざましく花開き、ここで自分の理想の落ち着き場所を見つけたといえる。 電懋の数年間、尤敏は全部で15本の映画を撮った。 その作品は優れたものが多い。 1959年、電懋に入って2年目、彼女は2部の力作《玉女私情》と《家有喜事》に出演した。 

《玉女私情》の中での、彼女と王引の演技はなかなかのもので、この映画は第6回アジア映画祭で大変好評を得、多くの賞にノミネートされ、尤敏は最優秀主演女優賞に輝き、このほか優秀編集賞も獲得した。

尤敏が同年主演した《家有喜事》の監督は、香港の著名な王晶監督の父親王天林で、シナリオは汪榴照。 監督の抜群の腕により、尤敏はまたしても驚くべき演技を披露し、第7回アジア映画祭でまた最優秀女優賞を取り、王天林と汪榴照もそれぞれ監督賞と脚本賞を獲得した。 尤敏はこれによって、林黛の後を継いでアジア映画祭で連続2回最優秀女優賞を獲った中国人女優となった。 

1961年、尤敏は易文監督の《星星、月亮、太陽》に出演した。 映画の筋は徐堅白青年をめぐる三人の女性との恩愛・憎悪・運命で展開する話。 尤敏が映画で扮した阿蘭は、徐堅白の心の中の一番目の女性。 二人は幼馴染。 しかし家柄が違うため引き裂かれる。 何年か経って偶然出会ってまた昔の愛が甦る。 だが運命のいたずらで二人は別れる。

尤敏は出色の演技で相手役の男優を凌駕したばかりか、観衆をも引き付けた。 1961年の第1回台湾映画金馬賞で、《星星、月亮、太陽》は、最優秀作品賞、脚色賞、撮影賞を獲得した上、尤敏はその優れた演技で金馬最優秀女優賞を受賞した。

1959年と1960年、連続して2回アジア映画祭の主演女優賞となり、またアジア映画人からも認められ、これ以降中国語圏映画でも多くの賞を取った。

国際映画に進む中国俳優の中で、尤敏は最初の成功者だった。 1961年に出演した《香港の夜》が日本で封切られた時、この作品は大ヒットとなった。 この映画で数多くの日本人が尤敏ファンになった。

この後、彼女は電懋と東宝との合作映画《香港の星》(1963年)、《社長洋行記》(1963年)、《香港、東京、ハワイ》(1963年)などで

その容姿を披露し、一躍人気の国際スターになった。

しかし女優としてトップにいたにもかかわらず、尤敏は突然引退を表明する。 1964年、結婚し良妻賢母の家庭生活に入る。 彼女は三人の子供をもうけ、幸せに暮らしていた。

1996年12月29日、満60歳の尤敏は、心臓病のためこの世を去った。 この玉女《美人》の逝去の報は、彼女を愛した多くのファンに数々の思い出を甦らせた。

出演作品一覧:

宝蓮灯《1977年》

珍珠《1965年》------鮫奴

宝蓮灯《1964年》------劉彦昌

梁山伯与祝英台《1964年》------祝英台

香港之星《1963年》

儿女《1963年》------王景慧

星星月亮太陽《1961年》------

待嫁春心《1950年》

桃花《196年》------金小桃

家有喜事《195年》------杜蕙芳

玉女私情《1959年》

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249 中国の三面記事を読む(28) 李香蘭 ⑤ 終

ある日本の女特務の懺悔------李香蘭 

2005-08-16 13:38:25 主题:一个日本女特务的忏悔----李香兰

本文网址:http://bbs6.news.163.com/board/rep.jsp?b=zhongri&i=134196

人間の選択の自由は、実際にはほんのわずかしかない。 歴史の中でも知らず知らずのうち、事の次第もわからぬまま、一回きりの選択を迫られることがある。 また歴史は人を苦しい立場に立たせたり、身を引き裂かれる痛みを味あわせたりする。 

たとえば、“自伝”の中に、李香蘭が中国人として1937年、北京で勉強していた時、何の気なしに参加した抗日集会でのことだ。 同級生と彼女は仲良しだったが、彼女が日本人だとは知らない。 “もし日本軍が北京に入ってきたら、諸君はどうするか?” みんなは意見を述べだした。 李香蘭はどう答えればいいかわからなかった。 彼女は、“私は、北京の城壁の上に立ちます” と答え、“私はこうするしかなかった” と書いている。 “どちらかの弾にあたって一番先に死ぬだろう。 それが自分に、もっともふさわしい身の処し方と本能的に思った” このところは、実に感動的に書かれている。 

“自伝”には、初めて祖国へ行った時のことが書かれている----日本で中国服と中国語を話すので、日本の警察からこっぴどく罵倒されたという。 彼女は、日本の軍国主義分子の中国人民に対する蔑視と敵視を隠さなかった。

西側には歴史が人を翻弄し苦しめるという考え方がある。 もちろん、これは敗者のものであって、勝利者の言葉ではない。 イタリアの有名なベルトリッチ監督が我国と合作で撮った“ラスト・エンペラー”は、この世の人々の苦しみを描いている。 映画の中でベルトリッチは、“ラスト・エンペラー”への同情をもって、愛新覚羅・溥儀が皇帝となり、プレイボーイとなり、満州皇帝となり、戦犯となり、普通の人となるところを描いている。 どの部分が、彼が個人的意思で積極的に関わったものなのか?

李香蘭の経歴は特別だ。 山口淑子は中国に生まれ、二人の上流階級の義父と知り合い、二人からそれぞれ中国名を貰った。 李香蘭と潘淑華。

彼女はリューバの紹介でロシア系イタリア人の下でオペラを習った。

その後、彼女は日本人の手で中国人俳優として、日本の極東政策の映画を撮り、日本軍を慰問し、日本側の満州・中国の対日親善の使者となっていった。 このことについて自伝では、盛んに反省と批判をしている。

“中国人は私が日本人であることを知らない。 私は中国人をだましていた。 罪悪感が私の心につきまとった。 袋小路に入り窮地に追い込まれたようだった。 日本のある人が------例えば新聞でその本当の身分を明らかにしようとしたり、彼女自身も何度か自分が日本人だということを発表しようとした。 しかしいずれも出来なかった。 “自伝”には詳しく書いていない。 だが、これはやはり日本当局が李香蘭を必要とし、李香蘭を利用しようとしたからであろう。

“李香蘭の謎”は、中国の軍事法廷で明らかになる。

“自伝”には彼女の中国での思い出、中国についての気持ちが書かれている。 小さい時から中国で生活していたので、彼女の言葉によく“日本に行きたい”“中国へ戻りたい” があったという。 これは本当だろうと思う。

自伝の中には、その頃の日本の中国ブームについて述べている。 これは多分に侵略者や占領の影響があったろうし、また日本人の中国文化と中国の山河に対する熱愛も否定できない。 愛は侵略と一緒に関連付けられる。 人は愛を名目に侵略することができる。 これは嘆かわしい。

歴史の事実は一つだけである。 人によってそれぞれ見方が違う。 だから少なくとも同じ歴史というものはない。 そのため種類の違う歴史の本が沢山ある。 一人の人間についても何種類かの歴史書がある。 山口淑子、潘淑華《中学時代の彼女》、李香蘭と大鷹淑子、その消すことの出来ない歴史の体験は違うのだ。 何種類かの版本の歴史を読むことは、一つの版本を読むより人、生活、歴史についてより詳しく知ることが出来る。

日中関係のその回想についても、それが“不幸”だとか“不愉快”だからといって、まったく無視してしまうことはできない。 歴史を正視することは、現実を正視するように、勇気と見識が必要だ。

《李香蘭の謎》は、そんじょそこらの映画スター・歌手のただの“秘話”では決してない。 

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248 ツツジを見てきました

昨日(26日)、根津神社、六義園、旧古河庭園をブラブラ歩いてみました。 根津神社のツツジは咲いてはいましたが、今年は花の咲き具合が遅れているようで、今一でした。

旧古河庭園の緑

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六義園のツツジと緑

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根津神社のツツジ

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247 中国の三面記事を読む(27) 李香蘭 ④

ある日本の女特務の懺悔------李香蘭 

2005-08-16 13:38:25 主题:一个日本女特务的忏悔----李香兰

本文网址:http://bbs6.news.163.com/board/rep.jsp?b=zhongri&i=134196

作者山口淑子は、また当時の日本側の上海映画の川喜多長政代表について述べている。 彼はこの仕事を担当するに当たって、軍部が彼の仕事に口を挟まないことを条件にしたという。 川喜多が“宣伝教育映画”の製作を断った時、暗殺の噂もとんだと言っている。 川喜多の父親は、あまりに親中国的だったので日本側に暗殺されてしまった。

“自伝”は、“木蘭従軍”に出演した陳雲裳の抗日の気持ちについても触れている。 彼女は最初、出演を断っていたがついには無理やり日本の軍艦の司令官に献花を命ぜられた。 その事で、陳が一日中泣いている間、一方では抗議の電話と脅迫状が続々と送られてきたそうだ。 誰も梅蘭芳のようにはいかない。(抗日を通した) 陳雲裳がもしあの時映画に出てなかったら、彼女が誰だか知る人もいなかったに違いない。 占領地区で人気が出ることは危険を伴うものだった。 抗日戦争中の敵側との芸術、それに出演する俳優の関係はまさに、見ていてため息が出てしまうほどだ。 

その頃の日本軍は、戦争の勝利を目指し、その国策と政治路線をすべてに最優先した。 個人生活を含め生活のあらゆる部分が、戦争の影、軍国主義の影、侵略者の魔の影に覆われていた。 しかし、これらの影も生きてる人達のすべての生活を取ってしまうことは出来なかった。 敵の占領地であろうと、政府機関、侵略軍内部にも多くの人が存在し、生活しているのだ。 これらの人々は、みんながみんな決して戦犯ではないし、誰も自ら占領を望んだわけではなく、占領されただけだ。 占領当局の許可の範囲内で、それぞれの仕事、生活を行っていた。 占領地域の人達は、誰もみな楊靖宇、趙一曼(共に抗日民族英雄)とはいかないし、誰も汪精衛、周佛海(共に漢奸)にはならなかった。

芸術のほかに、友情があった

ソ連の上海総領事館勤務をしていたロシアの娘リューバの友情は本物だった。 李香蘭とリューバの間には、国を越えた友情があったことは事実である。 最後は、リューバが李香蘭の救世主となり、彼女が李香蘭の日本人である戸籍証明を送り届けることにより、漢奸罪を免れることができた。 

自伝には、日本の高官、軍人、特務、占領地区の文化担当者(実際は中国での心理作戦担当)についても記述がある。 彼等の中には、タカ派とハト派のような区分けがあった。 たとえば山家亨という日本軍の情報将校は、川島芳子の最初の恋人で、中国通。 しかし彼自身、日本軍の中国でのやり方はよく思っていなかったようで、彼の家で開かれたパーティーでは、“急進的思想の新劇人”が参加して、話題も抗日排日の内容が多かった。 山家は、“肩ひじいからせ軍人言葉で怒鳴る日本人が、どんなに嫌われているか--------誰も軍部の言う「日満親善」や「日華親善」など信じていやしない。 ぼくはだんだん日本人が嫌いになっている” その後、山家は1943年、日本に召喚され軍法会議で10年の禁固刑を受けた。 戦後、監獄から逃げ出した。 彼が心配してたのは戦犯裁判にかけられることだった。 

悪名高い川島芳子も、“日本軍の中国大陸における行動を批判した文書を東条英機に送った”ため、彼女は日本軍から殺されそうになった。

これらの人や事件について、私達は簡単に“仲間割れ”だとして片付けてしまいがちだが、このような対処は、人、歴史、人生をより詳しく理解するのに役立つとは言えない。

侵略者に悲劇感はあるか?  悲劇の意識は?  多分あったろう、しかも強烈に。 私達は、彼等の身になって考え同情することはできない。 私達は、その茶番、ドタバタ劇を見るだけだ。

ミュージカル“李香蘭”と“李香蘭の謎”では、侵略者戦争の被害者、特に戦争に負けた者の悲哀についても述べている。 “かわいそうな日本、かわいそうな日本人” これは当然でしょう。 彼女の心、立場とすれば、私達とは違うのだから。

私達は1945年8月15日の無条件降伏は公平なもので、日本の敗戦は当然だと思っている。 戦争に負け当然の報いを受けた者たちは、その悲哀を身をもって知ることになったのだから、ムダではないだろう。

川島芳子について“自伝”では、あの悪女(「自伝」の記述では、川島の人柄を否定的に書いている)の一生は悲劇だとしている。  悲劇だろうか? 政治的角度から見れば、私達は悲劇だと見ることは出来ない。

しかし、人生、歴史と人間の角度から見ると、その人と事件については、もう処罰してから半世紀も経っており、川島というのは悪女、スパイではなく、どうしても普通一般の人生の悲劇だとなってしまう。

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246 中国の三面記事を読む(26) 李香蘭 ③

ある日本の女特務の懺悔------李香蘭 

2005-08-16 13:38:25 主题:一个日本女特务的忏悔----李香兰

本文网址:http://bbs6.news.163.com/board/rep.jsp?b=zhongri&i=134196

抗日は、私達の感覚では愛国者と漢奸の戦いであることに異論がない。 左、中、右、国、共、すべてみな意見は一致している。

山口淑子は無罪釈放してもいい。

大鷹淑子も賓客として待遇しよう。

李香蘭は、絶対に埋葬しなくてはならない。 侵略者、強盗、満州、“支那の夜”、“白蘭の歌”-------これ以上言うことがあろうか?

私の友達が“李香蘭”を見た後、理解できないと息巻いて私に言った。 “李香蘭、川島芳子なんかの亡霊を、我国の舞台で歌って、踊らせて。 一体日中関係の歴史の理解に、どんな意味があるっていうんだ?” 彼は、“上に意見書を出してやる” と言っていた。

私は、翻訳者陳喜儒先生が送ってくれた李香蘭ともう一人で合作した彼女の自伝《李香蘭の謎》を興味を持って読み始めた。 その本はとても読み応えのあるもので、予想以上の内容だった。

“一つの時代、一つの政策の虚妄に踊らされた人間でも悪夢から覚めてから、当時を反省し事情を説明できる人間は、まだ幸せである” 彼女は満州国の監視役兼関東軍参謀長吉岡中将について語る中で、自分の自伝の説明をしている。 

1941年、李香蘭は東京の日本劇場でリサイタルを行った。 切符を買う人の列が劇場を7回り半もするほどの大混乱となった。 ミュージカルでもこの事件を取り上げている。 こうして李香蘭は日本でも大人気になった。 

この時、彼女は当時の外務大臣松岡洋右の長男、松岡謙一郎からの手紙を受け取った。 手紙には、“人間の値打ちは-----有名になったりすることで-----測られるものではありません。 人間の価値は、人間の表面にあらわれるものではありません-----自分を大切になさい。 今は、個人の価値が軽々しくもてあそばれる時代です。 自分がしっかりしなければ-----国家や時局にもてあそばれるだけです-----どうか、いつまでも大事にしてください”

この言葉は意味深長である。 日本の歴史の一番暗黒の時期に、戦後戦犯となった松岡外相の長男が、中国人(または満州人)の振りををして日本の極東政策に協力していた女優に手紙を書いていたとは。

自伝ではほかに、進歩的芸術家が戦争中国内では、芸術的なことが出来ないので、満州や上海へ来て芸術的価値のある映画を作ったことが書かれている。 彼女は、セミ・ドキュメンタリー・ドラマの芸術映画“黄河”とロシア風の音楽映画“私の鶯”について述べている。 彼女がこの撮影に参加している間、ロシアと日本両国のスパイが後をついて調べていたという。 

当時島津監督は、“日本は間違いなく戦争に負ける。 負けるからこそいい映画を残しておきたい。 アメリカが日本を占領した時-----日本は戦争映画だけでなく、欧米に負けない優秀な映画を作っていたという証明になるために” と言ったという。 ちょっと読んだだけでは、あまりに奇抜すぎて常人では想像もつかないものだ。 でもまた考えれば、あの環境と雰囲気の中では、そういうこともあったかもしれない。 

軍国主義に向かって突っ走り、侵略、虐殺をしていた国は、一枚岩ではなかったようだ。 松岡謙一郎のような個人主義と(自称)無政府主義者、それに島津のような自分を欧米芸術家の地位に身を置くような人がいた。 でも彼等は反戦反軍国主義者ではなかった。 結局、彼等は日本人であり、当時の日本軍国主義に敵対する気持ちなどなく、また力もなかった。 “あの緊張した時代にあって、なんでこんな------ヨーロッパ音楽叙事詩みたいなものを撮るのかしら? -------ちょっと現実離れしている------” 

同じ映画会社の中で、上海で撮っているのは“木蘭従軍”“万世流芳”。

李香蘭によれば、この二つの映画は、違う解釈ができるという。 すなわち二つとも中国の観衆からは、愛国抗敵――抗敵の角度で理解することができる。 彼女の言い方では、この映画は中国、日本双方から受け入れられた映画で、更に言うなら“万世流芳”は重慶でも、延安でも受け入れられたという。 私はこれが事実、そうだったかは知らない。

しかし日本軍国主義側に立ったとしても、芸術をきびしく統制し、芸術を宣伝道具としたことは事実であるが、また芸術を完全に軍国主義の宣伝道具になしえなかったのも事実である。 

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245 中国の三面記事を読む(25) 李香蘭 ②

ある日本の女特務の懺悔------李香蘭 

 

2005-08-16 13:38:25 主题:一个日本女特务的忏悔----李香兰

本文网址:http://bbs6.news.163.com/board/rep.jsp?b=zhongri&i=134196

 

1992年4月、私は日本の劇団四季のミュージカル“李香蘭”の切符を手に入れた。 どんなものか興味を持って、“天地大に向かった。

 

李香蘭という名前は知らないわけではない。 子供の頃、私は彼女が主演した映画“万世流芳”を見たことがあるし、彼女が歌った“卖糖歌を歌ったことがある。 また中学の頃、先生が“漢奸罪”で起訴された彼女が、無罪で釈放された時の無念そうな表情をおぼろげに覚えている。

クラスメート達も残念がっていた。

 

占領軍の庇護の下もてはやされた女優が、“敵側についた”として銃殺されたのを見たことがある。 長い間苦しみと屈辱を受け、まるで希望のなかった庶民にとっては、気持ちがスカッとする思いで一種心理的緩衝剤になったのだろう。

 

ミュージカルの序曲の演奏が始まった-----------《夜来香》!

 

私は声を上げそうになった! 《夜来香》は、彼女が最初に歌った歌だ。

私はこれがまだ“解禁”されていない曲だということを知っていた。 軽快な歌で、多くの人達がこれをひそかに歌っていた。 でも、歌詞は反動的でもないし、別にいやらしくもない。 “漢奸が歌ってたからいけなかったのだろうか?”

 

李香蘭は1946年2月、当時の国民党政府が無罪を宣告し釈放された。

本名の山口淑子に戻った。 結婚して夫の姓・大鷹淑子となり参議院議員になり、1978年、彼女は政治家・友好人士という肩書きで中国を訪問した。 1992年、日中国交20周年の大イベントとして、“李香蘭”は我国の舞台の主人公になった。 日本の竹下登元首相もわざわざ大連の“李香蘭”の初舞台に駆けつけた。 中国の指導者も劇団四季の指導者浅利慶太に接見した。

 

李香蘭はいなくなったが、《夜来香》の曲はまだ健在だった。 

 

“音符は全世界共通の言語” だなんて誰が言ったのか?” もう一つ“何日君再来” もよくない歌だ。 この歌は一番最初、周璇が歌った。 ミュージカルを見ているうちにわかったのだが、李香蘭もこの歌を歌っていた。 李香蘭は自分が書いた自伝の中で、この歌は随分流行ったけれどヒットしたのも束の間、間もなく日本版、中国版とも発売禁止になってしまったと言っている。 外国の軟弱で退廃的な恋の歌が、風紀を紊乱するという理由だった。 その後1945年、李香蘭は上海でこの歌を歌い当局(工部局)から事情聴取を受けた。 “彼等は私のこの歌を重慶政府か共産党政府が戻ってくるよう願っていると疑っていた”

 

彼女はもう一曲《別れのブルース》についても、“退廃的で士気をそぐ敵性音楽”だとされ歌うことを禁じられたと言っている。 しかし、この歌は(日本軍)兵士達に人気があり、この歌の要望があった時は、将校達はわざと用がある振りをして、会場から姿を消し近くでこっそり聞き涙を流していたという。  面白い。

 

理解出来ないこともある。

 

ミュージカルは、李香蘭を歴史的犠牲者と表現したいようだ。 彼女本人はただ“純真”で日中友好を望んでいた。 しかし、日本の侵略政策の道具に利用され中国人民の恨みを買い危うく殺されそうになる。 また一方では、日本の軍国主義の中国侵略と中国人民虐殺や中国人民の反日抗日の動きも表現されている。

 

ミュージカルでは、1945年の日本投降後の日本側の悲惨と恐怖に陥った状況、中国人が漢奸の懲罰を求める時の激昂した場面が出てくる。

漢奸(川島芳子も含む)については、罰を受けるのはやむを得ないとしているが、また彼(彼女)等も歴史の犠牲者として、その情状には哀れむべきものがあるとしている。 この対応については中国人とは当然違うところがある。 たとえ日本に対して友好的感情なり見解を持つ人でも、また中国に対し友好的な日本の友人だとしても、あの歴史、人物や事件を振り返る時、特に自分の気持ちを述べるとなると、きっと違いが大きいと思う。 でもはっきり言って、これまであんまり真剣に考えたことなんてなかった。

 

これと似たようなことが、ほかにもあった。 1992年5月、私は広東で偶然、香港の英語テレビが放送していた映画“リリー・マルレーン”を見ていた。 リリーは、ドイツの血を受けた歌手で、小さい時から外国で暮らし、外国の男性と愛するようになる。 第二次大戦中その国は、ナチスに抵抗しドイツ人の入国を禁止する。 リリーは、家はあれども戻る事が出来ず、やむなくドイツへ帰る。 彼女の歌う歌も“別れのブルース”のような物悲しい曲で、前線のドイツ軍兵士の間で評判となり、一躍表舞台に引っ張り出されヒットラーにも接見される。

 

彼女は、その地位を利用して抵抗運動の応援をする。 その中には彼女の恋人もいた。 これが原因でゲシュタポに逮捕されるが、いろんな方面からの圧力や、宣伝効果を考慮されて殺されなかった。 1945年、枢軸国は敗れ、リリーは帰るべき家がなくなってしまう。 両方から利用され、また両方から疑惑と不満を抱かれるリリー。 ストーリーはあらましこんなようだったと思う。 

 

しかし彼女も間違いなく、もう一人の李香蘭だ!

 

西側の李香蘭。

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244 中国の三面記事を読む(24) 李香蘭 ①

ある日本の女特務の懺悔----李香蘭 ①

2005-08-16 13:38:25 主题:一个日本女特务的忏悔----李香兰

本文网址:http://bbs6.news.163.com/board/rep.jsp?b=zhongri&i=134196

“国産007”は、中国大陸では上映禁止になった。 あまりにもフザケすぎたことと、一番大きな理由は日中の敏感な歴史の話にも関わっていたからである。  泳儀が映画の中で扮したのは李香琴という李香蘭の娘役だった。 それに、星星が映画の中で張学友の“李香蘭”を歌っていた。 “李香蘭”をご存知の方なら、この歌が1991年、日本のフジテレビ30周年記念ドラマ《Sayonara! 李香蘭》の主題曲《Ikanaide 不走》で玉置浩二が作曲、歌ったことを知っているだろう。

この名前“李香蘭”こそ中国人にとっては、中国人になりすまし日本の極東政策に協力した女優として記憶されている。

李香蘭、本名山口淑子、彼女の李香蘭時代は丁度日本の中国侵略の時期だった。 李香蘭のもう一人の作者:藤原作弥は、“彼女は祖国日本と故国中国の狭間で運命に翻弄され,非常に苦しい青春時代を送った”と書いている。 山口淑子の祖父・山口博は小さい頃から漢学が好きで、昔の中国文化を愛していた。 それで1906年、日本から中国へ渡った。 彼女は1920年2月12日、中国遼寧省奉天(現在の瀋陽)に生まれる。

1932年、平頂山事件で父親が“敵に内通”との疑いで拘留される。 事件後、山口淑子の一家は瀋陽に移る。 13歳の時、父親の親友で当時の親日派・瀋陽銀行総裁李際春の養女となり、素晴らしい名前をつけてもらった------李香蘭

1931年、日本は東北を占領し満州国を作った。 平和であるかのように見せかけ、“大東亜共栄圏”という外見をカモフラージュするため、“満州映画協会”を設立し、山口淑子は当時の満州映画の第一回のスターとなった。 そして女優として、華やかで綺麗なだけの娯楽映画を撮り、日本軍に占領された“占領地区”の人々の娯楽に供された。 国際的にもこの映画制作は、侵略の事実を隠すのに格好なものだった。 奉天のラジオ局の“満州新歌曲”という新番組の中で、“漁家女”“昭君怨”“孟姜女”などの中国の歌を歌った。 そして、“夜来香”の一曲で、一躍その名前は広まった。 “歌手李香蘭”としても表舞台に登場することになり、歌謡界、映画界で大受け、誰でも知っている“スーパースター”となった。 大ヒット後、李香蘭は続々と日本軍の宣伝や、日本の侵略戦争の映画に出演した。

1937年、満鉄が出資した映画会社“満映”の成立と共に、李香蘭は専属スターとなった。 彼女が出演した第一作は“蜜月快車”。 彼女を“日本語がわかる中国姑娘”というふれ込みで、その後、“支那の夜”“熱砂の誓い”や“白蘭の歌”など中国を侮辱する映画を作った。

1942年になると、李香蘭はもう東亜共栄圏の大スターだった。 昔を振り返って山口淑子は、“あの戦争の時代、生きるため私は懸命に歌を歌いました。 あの映画は、軍部のためにやったもので中国人を侮辱する映画だと心苦しく思っていました” と語っている。

李香蘭は身分の重圧から逃れるため、1944年、“満映”を退社し、上海に身を寄せる。 1945年、日本敗戦、満州国は滅亡。 中国全土で漢奸(中国人が祖国中国を裏切る事。 対日協力、対日通牒、中国反抗のような反逆罪を犯した売国奴とされる)探しが始まる。 李香蘭は軍事法廷で“漢奸罪”の容疑で尋問された。(もう一人有名な裁判判例としては川島芳子がいる) その後、山口淑子の日本国籍が見つかり、日本人としての身分が証明され運良く助かった。 判決は無罪。

1946年2月、釈放され帰国。

李香蘭の名前と彼女の音楽、映画は、多くの文献の中にのみ残されることになった。 ただ香港だけは、かって中国人を演じた李香蘭に対して友好的で、60年代に香港の邵氏のところに招かれて、映画を撮ったことがある。

 

李香蘭は自伝の中で、“当時わずか10数歳の私は、大人のいうまま、その役柄を演っていただけです”

1974年から1992年の間、李香蘭は国会議員に連続して当選し、政治家として社会で活躍した。

同時に自伝を書いた。 《李香蘭―私の半生》

この自伝を通じて、彼女は、日本軍国主義の中国侵略戦争が中国人民に大きな災難をもたらしたと書き、“同じ黒髪、同じ黒い目を持っている、日中は二度と戦争はしないように” と平和の願いを表明している。 政治の犠牲者であり歴史の生き証人として、彼女は日本の若い人達に、“これは全て事実です!” としっかりと伝えている。

1989年、フジテレビから《Sayonara! 李香蘭》が放送された。

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243 中国は見る (124)  もっと日本を理解しよう!

私達は日本を本当に理解しているだろうか?

2006-04-14 02:12:23 主题∶我们真正了解日本吗?

本文网址:http://bbs6.news.163.com/board/rep.jsp?=zhongri&i=455782

中国人の日本に対する感情ほど複雑で矛盾したものはないのではないだろうか? 表現しにくいが---蔑視、尊敬、反感、敬服、羨望、嫉妬、よく知ってること、まるで知らないこと---しかし、複雑な気持ちだけは言い尽くせない。

我々はこの国と同じ空の下にいつも一緒いるのだ。 その上、一衣帯水の隣国として付き合わなければならない。

問題は数十年にわたって、日本を理解することが、中国側に不足していることだ。 

私達がよく知っている国、よく口にする成語の“同文同種、一衣帯水”の国のことだ。 この隣の国が生産する自動車、テレビ、エアコン、冷蔵庫、洗濯機或いはパソコン、インスタントラーメンなど、日本製品は続々と海を越えて、我国の道路、部屋、事務室、食卓を占拠している。 

また一方では、よくわからない民族だ。 数千年の付き合いがあり、過去百年の間には私達を驚愕させ、近代になってから我が国を馬鹿にした。 しかし、私達は、日本のことをよく知らない。

この民族は私達の印象の中では矛盾に満ちている。

一つには、日本人は美を愛する民族であること。 日本列島は山紫水明で美しい場所が沢山あり、旅するものの心をなごませ、感嘆させるものがあるのに、一方ではどうしても、第二次大戦と抗日戦争での日本人の野蛮で残忍な行為を忘れる事が出来ない。

もう一つ私達は、現代の神話ともいうべき民族の団結、勤勉、猛烈精神に敬服せざるをえない。 しかし一方では、度量がなく、尊大で、利己的、まったくお世辞をいう気にもなれない。 しかも、あの戦争について今に至るも、依然としてあいまいな態度を取っている。 これでは、この民族と本当に交流する気になれない。

実際のところ、全世界から日本人はわからない民族と見られている。

外見的には内気で、言葉が下手、ややもすると九十度のお辞儀をする民族が、どうしてこのように創造力と活力に富み、経済競争では向かうところ敵なしなのだろう。

ほかの民族が日本を理解しなくても関係ないとしても、中国はそうはいかないし、そうあってはならない。

かっての敵であり、今、中国と競争し協力しあっている隣国のことを、わからないということではいけない。

日本を研究し、自分としての対応策を講ずることが、当面の急務である。

残念なことは、一般民衆といわず、学術界といわず、日本を理解している人は、指折り数えるほどしかいない。 日本の無反省を、私達は批判しなければならない。 しかし私達も日本を知る努力をしないといけない。

大なり小なりサイトでの日本に対する議論の中で、一番目立つのは圧倒的に罵倒であって、理性的で深く考える思考が極めて少ない。 先だって行われた中日のネット対戦の中で、ある日本人がこう書いていた。 “あなた達がどんなに罵ろうと、我々を怠け者、不真面目、貧乏、意気地なしと言ってないことがうれしい。 私達は非難するためにだけ燃えてなんかいない”

中国のネットのみんなは、これに対して言葉が出ないと思う。

この日本人は私達に注意を与えてくれたというべきだ。 しかし、私達は日本を一体どれくらいわかっているのだろう? 

私達は日本を研究し、日本の長所を学び、対応の道を探ることが最優先

である。 そうすれば日本との交流で積極的に応対出来るようになれ

るだろう。

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242 中国の三面記事を読む(23) 林徽音の話題(下) 

《林洙――巨匠の困惑(大匠的困惑)》

授業が終わると林徽音先生はお茶飲みに誘ってくれました。 その当時梁家のお茶の会によく来られていたのは、金岳霖先生、張若夫婦、周培源夫婦と陳岱孫先生などでした。 そのほかにも、清華大学、北大の教授、建築学部の若い教師も常連でした。 金岳霖先生は毎日必ず三時半になると梁家へ来て、席に坐ると林先生にいろんな読みものを読み上げるのです。 ほとんどは英語の本でした。 内容は哲学、美学、都市計画、建築理論ですとかエンゲルスの著作などでした。 その話の中から議論が始まるのです。 

梁家は毎日、4時半にお茶の会が始まります。 林徽音先生がやはりお茶の会の中心で、梁先生はお話はあまりされませんでした。 梁先生はいつもじっと聞かれていて、たまに短くユーモアのある話をされました。

林徽音先生は、どんな話でも人を引き付ける話し方をしました。 時々、お友達の口真似をすることがあり、それがとても上手でした。 朱暢中先生が学生に自己紹介する時の口調で、“私は、チ・チャン・チョン(知唱中)です”とやったので、部屋中ドッと沸いたことがありました。 ある時、林先生が私を陳岱孫先生に紹介する時、“この子の実家は福州です。 上海から来ました。 だから福州の娘さんといったらいいのか、上海のお嬢さんといったらいいのかどちらかしらね” といって続けて、昆明の口調で、“彼女はもともとは雲南の人です”というので、また皆を笑わせました。 彼女は博学でどんな事でも知っており、独特の見解を持っておられました。

苗族の服装についての話になったとき、苗族の刺繍の図案から建築の装飾図案になり、我国の古代に流行した巻草紋様の発生から広く伝播されていく状況を紹介し、中国の巻草紋様はインドから伝わってきた。 インドにはアレキサンダー大王の東征の時伝わった。 また、ソファーの刺繍を指さして、これは苗族の娘さんから高額で買ったものです。 もともとは嫁入りの服の一部です。 彼女は目をパッと輝かすとソファーの梁先生を指さし、“ねえ主人は、苗族の娘さんの服の上に横になってるわ” 私は思わず笑ってしまった。

この時、梁先生も私達に四川・雲南調査行の時の面白い話を聞かせてくれました。 雲南の楚雄で結婚式に招かれ祝い酒を飲まされた。 新婚部屋に絶妙な対聯が貼られていた。 最初は、“手を握り互いに礼を行う(握手互行平等礼)”、も一つの方には、“心を合わせて自由の歌を歌おう(斉心同唱自由歌)”、そしてその次に梁先生は語尾を長く伸ばしながら笑って、“上の横書きには、「愛は心を込めて」(愛―的―精―誠)”そこにいた全員大声を上げて笑いました。 

梁家のお茶会で覚えていることというと、林徽音先生がある時、四川の文化についての話をした時のことです。 林先生が言うには、梁思成は古い建築物調査の旅で四川の民間の言葉を集めて、それが一冊の本になるくらいだったそうです。 旅の途中の山登りの時の竹駕篭かき達の掛け合いが、まるで漫才のようでそのまま文章になると言っていました。

二人で担ぐと後の人は前が見えない。 だから前後の二人がうまくチームワークを取らないといけない。 たとえば道に牛の糞か馬の糞があったとすると、前の人は、“空にトンビが飛んでいる”と言うと、後ろの人はすぐ、“地面にゃ牛の糞がこんもりだ”と言って、牛の糞を注意して避けるという具合。 西南の山道は石板で敷き詰められていたけれど、時が経つと石板がぐらついて、うっかりすると滑って転んだり、或いは石の間の泥水が跳ね飛ぶことがある。 そういった時は前の人が“ホーヤ-ホー”と声を上げると、後ろの人はすぐ、“真ん中のっかれ、はじ踏むな” こんな掛け合いが、数え切れないほどあったという。

梁思成が、“駕篭かき達は貧乏で、ユーモアがわかんないだろうなんてバカにしちゃいけない。 どんな時でも、愉快なことを見つけるんだ。 もし女の子に出会ったら、すぐからかうんだ。 女の子にあばたでもあったら、前の方が、“右(左)に花が一本”というと、後ろの方がすぐ、“あばたがあれば家は安泰”

林徽音がすかさず、“もし勝気な女の子だったら、すぐ言い返して、「それはあんたのお袋さん」だわ”、でみな大笑い。 林徽音はまた、“四川の言葉と民謡はとってもすばらしいわ! ちょっと整理すれば、いい詩と民謡が出来る。 「滑竿曲」(山登りの乗り物の一種。 竹ざおに椅子を括り付け、それを二人で担ぐ)とでもすれば本になるわ” 

残念なことに、神は林徽音にこの有意義な仕事を完成する時間を与えなかった。

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241 中国の三面記事を読む(22) 林徽音の話題(中) 

太太サロン“秘話

1930年代、林徽音が北京東城総布胡同に住んでいた時、彼女の家の応接間は“太太サロン”と呼ばれていた。 その当時の文壇の名高い巨匠達、朱光潜、梁宗岱、金岳霖、沈従文、蕭乾等がここに集まり、お茶にお菓子などで、文学を談じ、芸術を論じ、古今東西の四方山話に花を咲かせていた。 “太太サロン”の主役はやはり林徽音で、詩を読んだり、討論したり、その時の彼女の目はイキイキと輝いていた。 友達は林徽音の生活の中の重要な部分を占めていた。 彼等の賞賛と激励があったればこそ彼女も輝いたのだ。

この“太太サロン”には外国人もよく来ていた。 その中には英国籍中国系作家ハン・スーイン(韓素音)女士や大学関係の学者もいた。 アメリカのハーフォード大学の学長コナン(坎南)博士(Walter B. Cannon)も来ていた。 彼は娘ウイルマ(慰梅:Wilma)と娘婿のフェアバンク(費正清:John K. Fairbonk)を連れてきた。 その後彼等は“太太サロン”の常連となる。 

いろんな人がこの“太太サロン”について語っている。 それぞれの人達の思い出を紹介しよう。

蕭乾---一代才女林徽音》

私が始めて林徽音に会ったのは、1933年11月の最初の土曜日の午後でした。 沈従文先生が《大公報・文芸》欄に私の小説《蚕》を発表してくれた後、手紙でとても魅惑的な女性が私の小説を気に入ってくれて、私にお茶を飲みにいらっしゃいといっているとのこと。 その日、私は洗い立ての大褂(ひとえで丈の長い伝統的中国服)を着て、先に自転車で達子営の沈家へ行き、沈先生と一緒に北総布胡同の林徽音のその有名な“太太サロン”に足を踏み入れた。

林徽音はとても重い肺病に罹っていると聞いていたので、いつも横になって休んでいるだろうと思っていた。 しかし乗馬服を着ていて病人らしさはまったく見えなかった。 彼女はよくウエルマ夫人と外国人クラブで馬に乗っていた。 彼女が私に始めて言った言葉は“あなたは自分の感情で書いているわね、いいことだわ” 私にとっては大きな励ましになった。 彼女が話している時、ほかの人はほとんど口をはさめなかった。 沈先生、私、梁思成や金岳霖さえもソファに坐ってパイプをくゆらしてただうなずいて見てるだけだった。 林徽音のおしゃべりは、結婚している婦人のいわゆるくだらない話ではなく、学識・見識があり、舌鋒鋭い批評だった。 私は後になってよく考えた。 もし林徽音が、18世紀イギリスのジョンソン博士のように、身近にボズウェルがいて彼女の機知に富み、ユーモアのある話を、全部書き留めていたら、きっと素敵な本が出来てたに違いない! 彼女の話し方は回りくどくなく、あいまいさがなかった。 批評しても人から恨まれることはなかった。 私は林徽音の超人的な能力に感心した。 

《ウエルマ(費慰梅)――梁思成と林徽音》

哲学者の金岳霖は徐志摩の友達で、みんな“老金”(金さん)と呼んでいました。 梁氏夫婦は“老金”の隣に住んでいました。 梁氏夫婦の応接間には扉があり、そこを通ると“老金”の庭があって、彼の家へつながっているのです。 彼もよくこの扉を通って、梁氏夫婦の集いに参加しました。 毎週土曜日の午後になると“老金”の家でも友達の集会があり、それから梁家へ流れてくることもしばしばでした。 また、梁氏夫婦も、この庭を抜け“老金”の家へ入り込みほかの人と一緒になっていました。 いずれにしろどちらも彼等の親友たちでした。

私達が北京へ着いてまだ間もない頃、林徽音は友人の集まりに私達をよく連れて行ってくれた。 “老金”も歓迎してくれた。 みんな話をする時、私達外人のことなど気にすることなく、中国語でしゃべり、ドッと笑ったりしていました。 夫のフェアバンクが清華大学の教師になり、私達の中国語もだいぶ上達していたので、外人と思わないでくれたのでしょう。 

梁家の応接間のことで、どの人も覚えていることは、林徽音がいつも滔々と話し続けすべての話の中心にいたことだ。 彼女の雄弁は誰もが認めているところで、また同時に驚嘆させられたのは、著作も同じように得意だったことだ。 話と同様、創造性に富んでいた。 話題は軽いものから、鋭い分析、賢明な忠告、猛烈な怒り、狂ったような熱情、そして蔑視まで含まれないものはないくらいだった。 彼女はいつもサークルの中心人物だった。 彼女の信奉者は、その自由奔放で鋭い分析のおしゃべりに聞きほれていた。 

梁家の応接間ではしょっちゅういろいろな事が起こった。 特にご主人思いの召使・陳婆やが何かというとやって来て、細かい事をあれこれ林徽音に伝え、彼女の意見を求めるのです。 家のことであれ、隣の家のことであれ、どんなことでも林徽音に相談するのです。 こんな事がありました。 陳婆やがある日、慌てたように駆け込んで来ました。 梁家の西側の高い塀の隣に住んでいる家の屋根が崩れてポッカリと大きな穴が出来てしまったそうです。 彼女が言うには、そこの家に住んでいる人は貧乏で屋根を直す金がなく、林徽音に家主へとりなしてほしいというのです。 普段と同じように、林徽音はすぐやりかけの仕事をやめて、自分でこの事を調べに行きました。 林徽音は家主に交渉に行き、この住人が毎月銅貨50の家賃を払っていることがわかりました。 家主は、現在住んでいる住人は200年前の乾隆年間にこの部屋を借りて、毎月ずっとこの決められた家賃を払っている。 同じ家にずっと住んでいれば、中国の法律では家主は家賃を上げられない。 林徽音はテキパキと話をつけ、最後には林徽音が家主に屋根の修理代を渡して、この事件にケリをつけました。 

天才詩人徐志摩も、もちろん“太太サロン”の一人だった。 彼女はよく私に彼のことを話した。 ずっと彼のことを思っていたことでしょう。 私は時々思うんですが、よく英語でいろんな話題を話し合いましたが、多分、徐志摩と林徽音の間で交わされた話だったかもしれない。 彼女は永遠に徐志摩のことを忘れられなかったと思います。 だって彼女はその頃まだ若い女の子で、ロンドンで徐志摩から広い世界を教えてもらい、英国文学と英語の手ほどきをしてもらったのですから。

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240 中国キリスト教の現状

中国のキリスト教信者は 1600万人

 

2006-04-18 18:10:33 来源:新华网收藏此页网友评论14

我国基督教信徒超过1600万仍在继续增长

 

新華ネット北京4月18日電: 中国キリスト教協会の統計によると、中国のキリスト教信者は1600万人を超え、引き続き増加している。

 

中国キリスト教協会曹聖潔会長が18日語ったところによると、近年キリスト教の中国での普及は割合に早く、信者数も次第に増えてきている。

 

曹聖潔会長の説明によると、中国は地域が広大で、信者の多くは農村に分散しており、中国国内の信者の人数を確実につかむ事は困難だという。

海外では中国の信者の人数について、いろいろな推測と統計があるが、私はそのデータは明らかに誇張されていると思う。 中国国内では、言われているような多くの信者はいないと思っている。

 

協会の統計によると、中国には現在キリスト教会および集会所は、全部で55000ヶ所ある。 牧師、副牧師は3700人。 長老、伝道師など教職者は全部で約36000人。 ほかに10万以上、ボランティア活動で手伝う人がいる。 そのほか中国には現在、神学院、聖書学校が18ヶ所あり、神学生は約1800人いる。 各省で行っている育成訓練センターで、去年育成したボランティアは延べ人数26000人に達している。

 

曹聖潔会長が紹介してくれたところによれば、1949年以前、中国の教会は外国教会の一伝教区にすぎなかった。 “洋教”(外国の宗教)という古い印象を打ち破るため、中国のキリスト教信徒は、1950年“三自愛国運動”を起こし、「自治、自養、自伝」(自主的に、育て、布教する)を実現することを原則とし、1954年、中国キリスト教「三自愛国運動委員会」を設立した。

 

現在、中国のキリスト教は宗教の自由を有しており、自由に福音を伝えることが出来る。 教会は社会に対して、更に有益な貢献を行っているという。

 

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239 中国は見る (123)  安倍が政権の座に就いたらどうする?

2006-04-14 17:47:09 主题∶安倍上台又如何?

本文网址:http://bbs6.news.163.com/board/rep.jsp?b=zhongri&i=456799

小泉純一郎首相が9月に退陣することを巡って、日本の政界は大変ざわついている。 誰がポスト小泉の競争から勝ち残れるか? これは日本の内政問題であるだけでなく、中韓など周辺国家からも強い関心を持たれている。 一番呼び声の高いのは、靖国神社問題で小泉首相と基本的に同じ立場の安倍晋三。 中国国内のメディアからは非常に“危険視”されている人物だ。

官房長官を担当していて、その“タカ派”で強硬な態度は少しおとなしくはなっているが、もし安倍晋三が日本の権力を握ったら、中日関係はもっと大変なことになるだろうと、多くの人が考えている。 また、“余計な事ばかりしゃべる”麻生太郎と比べると、安倍晋三の政治手腕は高く、頭も比較的冷静で“頭脳型の政治家”で、なかなか手強い。

だから中国国内のメディアは、靖国神社問題を適切に解決しようとする福田康夫等の人達が出馬し、崖っぷちの中日関係を改善するよう願っている。 中国国内のこの期待はもちろん理解できることである。 しかし、日本の次期首相に誰が選ばれるかは、これは日本国内の政治勢力の勝負の結果によるものであって、中国の意思でどうする事も出来ない。

中国と同じように小泉首相の靖国神社参拝を徹底して反対している韓国は、ポスト小泉の首相人選に対して“泰然と構えている”ように見える。 韓国の政界、経済界の多くは、いずれも安倍晋三を“奇貨”(宝)としている。 ここには日韓の特殊な要因がある。 例を挙げると、安倍晋三は岸信介の孫である。 岸信介は韓国人から見ると、日韓友好の交流のきっかけを作った人であり、安倍晋三はこの事で得をしているといえる。 

しかし韓国が安倍晋三を“高く買う”理由の中に、安倍には強い指導力があると見ている事がある。 安倍晋三は、日朝国交関係正常化の解決に、大事な働きをした人物であり、韓国の外交政策にも良い影響を与えた。 同時に安倍晋三は、直接金正日と話した数少ない高官の一人である。 韓国は安倍晋三が、この方面で影響力を発揮し、東北アジア地域での外交全体を動かす事を願っている。 或いはこれが韓国の“安倍首相”誕生に大きな期待を持っている最大の理由であろう。

もし安倍晋三が首相になったら、中日関係は本当に真っ暗闇に落ち込んでしまうのだろうか?

これもちょっと分析する必要がありそうだ。 その昔、共産主義を嫌っていたニクソンが、電撃的に米中の関係正常化を図り、20世紀の歴史の一大事業を成し遂げた。 福田康夫の父親は福田赳夫元首相である。 かっては台湾派の“リーダー役”だった。 しかし彼の首相在任中、中国と中日友好条約を締結した。 だから、毛沢東もはっきり言っている。 “私は右派が好きだ” 右寄りならば却って圧力を減らす事が出来、左派が出来ない思いがけない大事をやるかもしれない。

安倍晋三にこの知恵と決断があるかどうかは、まだ誰にもわからない。 しかし肯定できることがあるとすれば、安倍晋三は強硬ではあるが、決して無分別な人ではないということだ。

ポスト小泉の指導者として誰が選ばれようと、中国というこの大きな巨人の存在を無視する事は出来ない。 この点について安倍はよくわかっている筈だ。 

とに角、現在中日関係が低迷する中、我々は“どんなに風が吹き雨が降ろうと、静かに前進するのみ”の気構えを持つ事だろう。

日本国内の政局の変化を待つよりは、主体的にやるべきことはやっておこう。 自分の立場を確立し、長期的戦略を持ち、確固たる原則を持っていれば、日本の政局のいかなる変化にも、落ち着いて対応できる筈だ。

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238 中国は見る (122)  日本の実態報告――私の体験 《下》

日本の実態報告――私の体験 《下》

5.外国人に対して

私の家族は、日本で差別を受けていないかと心配しています。 でも、私個人の感覚では、少なくとも制度上の差別はほとんど感じません。 外国人に対しては家のローンで制限があるほかは、別に見当たりません。

日本人が中国人を見下すことがあるかもしれませんが、政府として、外国人に対して、制度的には何の差別もないようです。

日本で外国人として生活する場合、“外国人登録証”が必要となります。 身分証のようなものです。 もし引っ越す時には、役所に行って住所を変更しなければなりません。 登録したところで、税金を納めたり、またそこで福利厚生施設の利用も可能となります。 こうした登録手続きの費用は無料ですが、登録内容の証明書を発行してもらう時には、役所へ行って証明書の発行を受けなければなりません。 300円ほどお金が掛かります。 その他、銀行で口座を開いたり、携帯を購入する場合、外国人に対する差別的規定はありません。 また保証金といったものもありません。 私は中国国内に戻って、これらについては深く考えさせられます。

6.大事件について

日本へ来た当時、いくつかの大事件にぶつかりました。 簡単に紹介しましょう。

一つは、去年の4月に起こった電車脱線事件。 脱線は朝の出勤時間に発生し、電車がカーブを曲がりきれず、マンション駐車場に突っ込んだ。

107人が死亡、数百人が負傷した。 事故の原因は、自分のミスにより電車を遅らせてしまった若い運転士が、その遅れを取り戻そうとしたことによって起こった。 高速でカーブを曲がろうとしたため脱線し、運転士はその事故で亡くなった。

私が一番感じたことは、日本のメディアが即刻事件を報道したことと、その後一ヶ月近く全総力を挙げて、事件の原因ならびに救援状況とその進展、処理状況などを克明に調べ報道したことだ。 しかも、JR鉄道会社の数々の内部問題を暴き出した。 たとえば、JRの一部の人達が、事故当日、すでに事故発生を知りながら、ボーリングをしてたり、酒を飲んでいたことなど。 JRはこのことでお詫びを述べ関係者の処分を行った。  また日本のメディアは、視聴者に死亡した人の名前とその冷酷な数字を知らせたり、多数の死者の追跡報道を行ったり、遺族に事故以降密着取材したりした。 これら報道は人々に衝撃を与えた。 

事故後の対応は極めて丁重に行われた。 JRの総裁を含めトップは、それぞれの遺族の家を訪問しお詫び行脚をした。 テレビにはこの不運な総裁が遺族に頭を下げるシーンが放送された。 自宅を訪問し、お悔やみを言うことは、日本の一番丁寧なお詫びの仕方である。 以前、アメリカの原子力潜水艦が日本の練習船にぶつかり沈没させたことがあった。 日本側はアメリカ人に日本の習慣(各遺族の家へお詫びに行くこと)を求めた。 アメリカ側がこれに応じたかは知らないが。

もう一つは、中国国内の反日デモである。 中国での反日デモが猛烈に行われたとき、日本のメディアもいろいろ報道していた。 でも過激な発言は見られなかった。 大体において客観的報道と解説だったと思う。 

これは私の日本語が十分でなく、聞き取れなかったことがあるかもしれないので無責任なことは言えない。 しかし私の見たところ日本の反応は、中国人ほど強烈ではないように思う。 テレビで見ただけだが、中国大使館に火炎瓶を投げ込んだり、中国領事館の表札に赤ペンキをかけたり、中国大使館に銃弾やカミソリの刃を送りつけたりがあったようだ。 横浜では中国銀行を襲ってガラスを何枚か割ったようだ。 

唯一、私の身辺で起こったことといえば、友人が朝出勤する時、住んでる部屋の管理人から中国のことを悪く言われたことくらいだ。 私の感じでは、日本人はあまり政治に関心を持っていない。 特に若い人。 日本の右寄りはほとんど老人である。 政治に無関心といったが、日本の選挙の投票率の低さからも察することができよう。 聞くところでは最低は30%にもいかないという。

最後に総括的にいうなら、日本の社会は多元化しており、そんなにざわついた感じでもない。 安定した生活を送っている。 よく言われる調和社会とはこういうものではないだろうか? 日本には学ぶべきところが沢山ある。 もしあなたが日本を敵と考えているなら、敵の悪口いうより敵を理解する方がよっぽど大事だと思いますが、違いますか?

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237 中国は見る (121)  日本の実態報告――私の体験 《上》

2006-04-12 06:43:47 主题:告诉你一个真实的日本近期一位中国人到日本的一些感受  本文网址:http://bbs6.news.163.com/board/rep.jsp?b=zhongri&i=183931

日常生活面から感じたことを紹介します。

1.    偽物がない

中国国内の偽物氾濫に慣れているところから、偽物がない所に突然来ると、ちょっと違和感を感じてしまいます。 日本では買い物の際、基本的に偽物のことなど考えなくていいのです。 100円ショップ(大部分の商品が100円で、中国の10元店に似ている)から大きな店、ネットでの購入、自動販売機等、商品は値段の違いはあるけれど、偽商品について心配する必要はありません。 中国で偽物が一番多い、例えばタバコは、こちらで偽物を掴まされることはありません。 私がタバコを吸うので、これは実感できました。

特に食べ物については、食品安全事件は非常に少ないようです。 たとえ問題が起きてもすぐ解決されます。 例えばちょっと前のことですが、日本の老舗の食品会社が生産している牛乳に問題が起きたとき、その百年続いた老舗の店は、倒産に追い込まれました。 また日本で鳥インフルエンザが発生した時、地方の養鶏協会の会長が、自分の農場の病状を隠したところ、それがバレその農場の夫婦は心中してしまいました。 狂牛病についても、日本はアメリカの牛肉の輸入を全面的に禁止しました。 政治的な要因がありますが、日本は食品の安全については非常に注意を払っています。

2.    日本人の“決まりごと”

日本では“決まりごと”が多く、礼儀もうるさい。 例えば日本では、エスカレーターに乗る場合、一般的に左側に立ち、右側は空けておきます。 もし急ぐ場合は右側を通ります。 ゴミの分類も非常に細かく、天皇の娘が平民に嫁ぐことになり、嫁入り前の学習内容にゴミの分類も入っていたそうです。 これは日本の主婦の必修科目なのです。 礼儀作法も面倒で、日本語の中には数多くあります。 尊敬語という独特の表現法があり、中国語より断然多いです。 

今まで私は、日本人が公共の場所でケンカ(新聞ではよく見ます)してるところを見たことがありません。 あなたにもし過失があったとしても、一般的には好意的に処理してくれます。 私の友人が洗濯中、不注意で水を下に流してしまったことがった。(こういうことはよくあることで、古い家には洗濯用の排水設備がないことが多い) 幸いたいしたことにはならなかった。 下に住んでいたおばあさんが、何も言わずに友人のところにやってきて処理してくれた。 たとえ損害が出た場合でも、損失の程度に応じ賠償すればよい。

3.    治安方面

東京の治安関係はとてもよい。 電車の中でもめったにスリなどに遭わない。 よく膝の上にカバンを置き寝ている姿を見かけるが、盗まれる心配はない。 もちろん犯罪がないわけではない。 新聞でもしょっちゅう殺人などの報道が見られる。 だが総体的に治安はいいと思う。 日本に8年も暮らしている友人も盗みにあったことはないという。 

日本にはホームレスもおり、普段は、駅、公園にダンボールなどでねぐらを作っている。 追っ払う人はいない。 彼等は一般的に物乞いはしない。 24時間コンビニなどでは、当日を過ぎた食品をホームレスにあげているという。

ちょっと前のニュースで、大きな川の土手に住み着いたホームレスが沢山のウサギを飼っていて、その数数十匹もいたそうだ。 ウサギが穴を掘るため、お役所が土手の安全を心配したそうだが、追い払うわけにもいかず、その家の周りに柵を設けた。 その後、ウサギは付近の学校に引き取られたそうだ。

4.不景気?

日本はバブル崩壊後、不景気になったという。 私の感じでは日本の経済の基礎はしっかりしていると思う。 経済発展がわかるポイントは就業率(経済学科じゃないので、ただ私の直感です)。 というのは、日常の仕事が結構あるのを実感しているからです。 基本的なバイトの時間当たりの単価を言いますと、普通一時間1000円位です。 もちろん高いのから安いのまであります。 東京での毎月の生活費用は大体15万円ほどかかります。 これは一人で部屋を借り、すべての費用を負担した場合です。 ですから、毎月このバイトを150時間すれば、基本的な生活は保障されます。 日本で暮らしている多くの留学生は、毎月バイトで30万円の収入があります。

日本人は消費水準は結構高いのです。 例えば引越し、引っ越す時は、新しい電化製品を買います。 そして古い家電製品を捨てるのです。 それも多くはまだ新しいものです。 もちろん大きいものは廃棄処理費用を徴収されます。 日本に長く住んでいると、沢山の物を拾うことが出来ます。 机、椅子、電気製品など。 これもお金を使わないで住む方法です。 北朝鮮は日本から自転車を船で運んでいるそうです。 真偽のほどは知りませんが。

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236 中国の三面記事を読む(21) 宮崎駿作品“火垂るの墓”をけなすネットの書き込みに一言

2006-04-08 18:04:37 主题:看宫崎骏作品最后萤火虫及网友评论后的愤怒

本文网址:http://bbs6.news.163.com/board/rep.jsp?b=zhongri&i=448911

私はネット上で“火垂るの墓”を見終わった後、一部の憤青が、この映画をまったく見もしないで、それが日本映画というだけでけなしていることに対し、とても違和感と怒りを感じたので、この文章を書きます。

日本人と日本について、もっと理性的に考えたらいいのではないかと思います。 私はこれまでネットは、潜水専門で表に出るのは好きではなかったのですが、一部のネットの人の中のこの映画に対する評価に、我慢できないものがあったので、表に出て一言申し上げたいと思います。

以前、アニメ映画は見なかったのですが、始めて見たのが同じ監督の作品「千と千尋の神隠し」、これもネットで見ました。 広東語の吹き替えでしたが、見終わった後とてもいい作品だと思いました。(機会があれば日本語版で見たいと思います)。 それ以後、宮崎駿という名前はしっかり覚えました。 物事をきちんと考えられる人なら、誰だって宮崎駿の才能を否定できないはずです。

“火垂るの墓”は、私が今まで見た映画で一番いい作品です。 言うのも恥ずかしいのですが、私はまだまともにこの映画を見ていません。 見たくないのではなく私の心が感じやすいもので、悲劇的な作品を見続けられなかったのです。 製作者が力を入れて描くこの兄妹愛は、見る人を泣かせずにはおきません。 私は何度も大声を上げて泣きそうになりました。 でも体面もあるので、自分の手を咬みながら涙を流していました。 (部屋には、ほかの人もいたからです)。

あの悪口を言う人達の良心は犬にも劣るものです。 まったく映画を見もしないで、自分の無知と狭い見方で、ただ悪口を言っているのではないでしょうか? あの人達の頭の中には、日本のものは全て排斥する、日本の物は全て要らないと思っているのでしょう。

否定はしません。 日本人は、中華民族に対し許すことの出来ない罪を犯しました。 南京大虐殺、慰安婦、細菌戦等は民族の心の中に永遠に残る痛みです。 私達は歴史を清算すべきです。 でも歴史を清算することは、決して“愛国志士”達、憤青達が考えるように、東京へ攻め込むことではありません。 歴史を清算(細菌戦被害者訴訟等)して、日本人に歴史を認識させ、軍国主義の台頭を阻止し、隣国と仲良くするようすべきです。 日本人の中の一部、特に右翼分子には軍国主義の人がいることは否定しません。 島国思想で考えが狭く、極端で残忍です。

だから、戦争中我が民族にあのような犯罪を犯したのです。

しかしこれは決して全部ではありません。 日本人の中にもいい一面、光る一面があります。 彼等の科学技術、努力し向上を目指す精神、またこの作品に見られる芸術への造詣などには見るべきものが沢山あります。 芸術には国境はありません。 肉親の情はどの国も同じです。

中国人だろうと日本人だろうと違いはありません。

この作品を悪く言う人は、考え方が極端で偏見を持った人達です。 あなた方(基本的に憤青)は、日本の右翼勢力とはお互いに不倶戴天の敵のはずですが、本質的には同一の人種です。 あなた方と日本の右翼分子は、この映画を見て、戦争が何をもたらしたかよく考えるべきです。

平和は多くの人が求めるものです。 日本をやっつけるだの、日本人をぶっ倒すだのとわめいているのは考えなしの憤青だけです。 勝つの負けるのなんて、一体なんのいいことがありますか。

もう一つ申し上げます。 日本の物をあれこれけなすのもやめなさい。日本人の悪口を言っているこのパソコンの中にも、たぶん日本の部品や技術が使われています。 

最後に、どうかみなさん(憤青の方々)、もし頭の中にまだ理性的な考え方が残っているなら、この優秀作品をけなさないようにお願いします。

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235 中国は見る(120)  “メード・イン・ジャパン”の品質は なぜ落ちてきたのか?

2006-04-10 13:11:33 主题:”日本制造为何出现质量滑坡?

本文网址:http://bbs6.news.163.com/board/rep.jsp?b=zhongri&i=450674

2005年、ソニーのCCD問題が引き起こしたDC事件は、どうやら収まったようだ。 キャノン、ニコン、ソニー、富士、リコー、オリンパス、コニカなど、これらブランドも中国市場で、また前のような繁栄を取り戻している。

しかし、3月14日、日本のカメラメーカー・オリンパスのアメリカ支社は、同社のアメリカ市場で販売している35ミリフィルムカメラを120万台回収すると発表した。 回収の原因は、このカメラのフラッシュ電気の不都合でカメラが過熱する欠陥が見つかったということだ。 この報道から、またDC事件に対する記憶が思い起こされ、全世界を席巻しているメード・イン・ジャパン”に疑惑の目が向けられることになった。 

中国の消費者のほとんどの人の印象の中には、“日本製”は“品質最高”の代名詞だったはずだ。 しかし、21世紀に入ってから“日本製”は、ひっきりなしにトラブルを起こしている。 日本のデジタル製品全体が品質問題の渦中にあり、“日本製”に対して、多くの人が疑問を抱くようになった。

では、“日本製”の品質が悪くなった原因はどこにあるのか? 主な原因は恐らく、過去、高度な品質を維持してきた根本的要素に変化が生じたことだと思う。 長い間、日本の大企業は“終身雇用制”という人事管理制度を採用していた。 終身雇用制と年功序列型賃金、企業組合の三つを日本経営の“三本柱”と称していた。 しかし、1990年代初め、いわゆる“バブル経済”崩壊して以降、日本の企業は“終身雇用”制度を廃止するようになった。 何の心配もなく働けた社員達が、突然明日、或いは1ヶ月以内に解雇されるとなったら、この会社の品質に対して真面目に取り組むだろうか? だから品質に問題が生じるのも必然的だ。

 

更に重要なのは、長いこと、日本は大企業を中心に中小企業は企業の下請けで、大企業の部品を生産する企業系列となっていて、大企業と下請けは安定した協力関係を作ってきた。 経済のグローバル化とIT革命の進展に伴い、大企業はコストを下げるため、外国企業に発注したり、海外で生産をするようになり、下請企業は他の製品への切り換えを余儀なくされ、大企業との依頼関係もなくなっていった。 大企業と下請企業との運命共同体関係に亀裂が生じ、企業の系列化の鎖も断ち切られた。 日本の大企業の変化に対応した品質管理体系がまだ十分整備されてない時に、この品質問題が起きたことは、起こるべくして起きたことで、避けられないことだ。

全世界的に競争が激化しており、近年、日本は絶えず対外直接投資を拡大し、海外に生産基地を作っている。 多くの製品、或いは部品は、海外の生産基地で生産されるか、または海外で組み立てられている。

外国で生産される製品、部品の輸送により、管理者、現場労働者とは、コミュニケーション、文化面などで相違が存在するわけで、日本国内で単純に生産するのと比べて、品質、管理面での難しさは、確実に増えている。 これが恐らく日本製品の質を落とす要因の一つに違いない。

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234 中国の三面記事を読む(20) 林徽音の話題(上) 

唐代建築物の調査・発見

 

梁思成は1932年に《清式営造則例》の原稿を書き終え、1934年、中国営造社から出版された。 林徽音はこの本の原稿の最初から最後まで、何度も書き換えたり削ったりと修正の手伝いをしたほか、写真撮影や写真の選択など精力的に関わった。 梁思成は序言の中でこう書いている、“少なくとも彼女は、この本の半分の著者というべきだ” 林徽音は古建築学者である。 しかも、科学者の緻密な目、史学者としての思想、文芸家としての激情を併せ持ち,この方面の造詣が深い。 その頃の梁思成の論文と調査報告の大部分は、彼女の手が加えられていた。

それ故、梁思成はよく人にこう言っていた。 彼の文章は林徽音が手を入れてくれたお蔭で完成しました。

 

1935年初め、南京政府は山東曲阜の孔子廟の修復工事を行うことを決めた。 梁思成が曲阜へ行き孔子廟を実地調査し、修復計画を準備している時に、林徽音の肺結核がまた再発した。 病院の医師は、彼女に3年間の休養を伝えたが、林徽音は6ヶ月だけ休みますと答えた。 毎日、林徽音は睡眠以外は著作をしていた。 2月、彼女の《憶》(思い出)は楊晋豪編の《中国文芸年鑑》に取り入れられ、上海北新書店から出版された。 6月1日には、《吊徳》が“文明月刊”第7巻第6期に発表された。 彼女の小説“鐘録”、“吉公”、詩の“霊感”、散文“徐志摩逝去四周年を偲ぶ”などは、“大公報・文芸副刊”に発表。 ほかに、“霊感も書いたが、生前は発表されず、1985年出版の“ 林徽音詩集”に収められている。 1936年5月、林徽音は自分でもう回復したとし、また梁思成と洛陽へ行き、劉敦楨と陳明達等と共同で龍門石窟の調査を行い、続けて洛南市南郊の関羽の墓、また開封の宋代

の繁塔なども調査、泰安では泰山の麓の岱廟--------これは歴代帝王が神を祭ったところ----------も調査した。

 

日本人が以前、中国には唐代の木造建築は存在しないと断言していた。 唐代の木造建築を見るなら、日本の奈良へ来るしかないと。 しかし、梁思成と林徽音は、中国はこれだけ大きいところだから、絶対唐代の木造建築はあるはずだ。 二人は図書館へ行って、多くの資料を読んだ末に重大な発見をした。 フランスの中国学者ポシオが書いた“敦煌石窟図録”の中に、2枚の唐代壁画についての研究が目に留まった。 この2枚の壁画は、仏教の聖地五台山の全景を描いていた。 また、寺の名前もはっきり記されていた。 梁思成は北京の図書館で、“清涼山「山西五台山」誌”という本を見ると、その中に佛光寺の記載があった。 梁思成と林徽音は、この場所は交通も不便で、参拝客も少なく、古建築等の保存に最適だと判断した。 運試しに行ってみようと決めた。

 

1937年6月、梁思成と林徽音、莫宗江、紀玉堂は汽車に乗り太原へ行き、そこから車に乗り換え、また途中からロバに乗って五台山へ向かった。 険しい山道を避けながら前進し、時にはロバも前へ進めないところもあり、下りてロバを引っ張りながら進むこと2日、やっとこの五台の県城から東北60華里(約30キロ)の佛光寺へ到着した。 そこには、唐代の木造、泥で出来た人形、石刻、壁画、墨蹟、また寺の内外に、魏(或いは斉)唐の墓、塔、石の彫刻などが一杯集まっていた。 どれも我国の歴史文物の宝物である。

梁思成は《古建築を探す》という一文の中に、この佛光寺の情況を詳しく述べている。 翌日から詳しい調査を始めた。 斗拱(ますぐみ)、梁(はり)、装飾のある天井板、彫刻された柱・土台石を見て回った。 単体、総体は、いずれも間違いなく晩唐の特徴が見られた。 天井の上の真っ暗い空間に上がって見ると、そこには屋根を支える“主椽”(現代の屋根を支える術語を借用)を使用しているのが見えた。  それは唐代の絵画の中にだけみられるものだった。 この屋根裏部屋には、何千匹ものコウモリが棟木の上に集まっていた。 そのため多分上に書いてあるだろう日付を見つけることができなかった。 そのほか、木材には何千万ものコウモリの血を吸う臭虫(吸血虫)がいた。 みんなは厚いマスクを鼻にあて、真っ暗な中またものすごい臭気の中、何時間も測量し、絵を描きフラッシュで写真を撮った。

大広間で作業をしてから3日間、林徽音が一本の梁の下を見ていたところ、墨で薄く書かれた字を見つけた。 この発見はみんなに電撃のような衝撃を与えた。 今までのほかのどんな日付より感激的なものだった。

みんなが懸命になって佛像の中をかき分け,梁ををきれいにして、書き記された字を見ようとした。 彼女は、頭を後ろにやったり色んな角度からこの梁の字の文字を見極めようとし努力した結果、林徽音はかすかな人名を読み取った。 それと長ったらしい唐朝の官職もあった。 その中で、一番重要なのは右の梁にかすかに書いてあった。 “佛殿主女弟子寧公遇” そして外の石段の石柱に刻んであった年代は“唐大中十一年”、西暦857年に相当する。 彼等が北京へ戻った後、林徽音は朱自清と蕭乾に興味津々に、この時の調査の情況を語って聞かせた。 林徽音と仲間達が発見した佛光寺の本堂は、その当時国内で見つかった最古の木造建築だった。 

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233 中国の三面記事を読む(19) 林徽音と徐志摩 《下》

林徽因の略歴

 

生年:1904年 6月10日

没年:1955年 4月 1日

出身:福建省 闽侯

職業:建築家、教授、詩人、作家

原名:徽音

 

1904年6月10日、杭州で生まれる。 1916年、北京培華女子中学に入る。 1920年4-9月、父・林長民についてヨーロッパに行く。 ロンドン、パリ、ジュネーブ、ローマ、フランクフルト、ベルリン、ブリュッセルなどの地を巡り、同年ロンドンのセントメリー女学校に入学する。 1921年帰国し、また北京培華女子中学で勉強する。

1923年、新月社の活動に参加する。 1924年、アメリカに留学、ペンシルベニア大学の美術学部に入り、建築学科の授業を履修する。 1927年卒業。 美術学士の学位を取る。 同年エール大学の演劇学部に入り、G.P.パーカー教授のもとで舞台美術設計を学ぶ。 1928年3月、梁思成とカナダのオタワで結婚。 結婚後、ヨーロッパへ建築の視察に行く。 同年8月帰国、福州の実家へ戻る。 福州へいる間、烏石山第一中学で“建築と文学”について講演したり、倉前山英華中学で“造園建築芸術”について講演する。 1929年、東北大学建築学部の副教授となり“彫塑史”と英語を講義する。 この年、張学良が東北大学の校章のデザインを賞金を出して募集した。 林徽因が設計した“白山黒水”のデザインが当選した。 1930年、肺病のため北京香山の双清別荘で療養。 1931年、北京中国営造学社の招きに応じ入社。 1931年から1946年まで中国営造学社にいる間、中国の古い建築を調査研究した。 行き先は、北京、河北、山西、浙江、河南、山東、陝西等の地に及んだ。

 

1946年から清華大学の建築学部の教授となり、“中国建築史”を講義、また大学院生のため“住宅概説”等の特定テーマの課目も設けた。

 

1949年、中華人民共和国の国章設計チームに入り、1951年には天安門広場の人民英雄紀念碑の碑座の紋様やリリーフの設計に関わり、1951年には景泰藍の工芸生産を調査研究すると共に、民族的風格のある景泰藍の新しい図案を設計、自ら参加し試作した。

 

1950年、北京市都市計画委員会委員、工程師を兼任。 1953年、中国建築学会第一回理事会の理事に当選。 “建築学報”編集委員、中国建築研究委員会委員となる。

 

設計に関わった工事としては、北京大学地質館、灰楼学生宿舎、雲南大学学生宿舎、清華大学教師住宅、中南海懐仁堂改修工事等がある。

 

彼女が発表した建築に関する論文には《中国建築のいくつかの特徴を論ず》、《平郊建築録》(梁思成と共著)、《清式営造則例》第一章緒論、《晋古建築預査紀略》(林徽因、梁思成署名)、《天寧寺から建築年代鑑定問題を論ず》(林徽因、梁思成署名)、《中国建築史》(遼、宋部分)、《中国建築発展の歴史的段階》(梁思成、莫宗江共著)。

 

彼女の主な文学作品は、《誰愛这不息的变幻》、《笑》、《清原》、《一天》、《激》、《昼夢》、《瞑想》、等詩篇数十首。 話劇《梅真同他》。 短編小説《》、《九十九度中》等。 散文《窓子以外》、《一片陽光》等。

人民文学出版社から《林徽因詩集》(1985年)が出版されている。

また人民文学出版社と香港三聯書店が共同編集で(中国現代作家選集叢書の一)として《林徽因》を出版した。

 

徐志摩の略歴

 

生年:1897年 1月15日

没年:1931年11月19日

出身:浙江省 海宁 硖石

職業:詩人、散文家

 

1915年、杭州一中卒業後、上海滬江大学、天津北洋大学、北京大学に学ぶ。 1918年、アメリカへ銀行学を学びに行く。 1921年、イギリスへ留学。 ロンドンのケンブリッジ大学特別生として政治経済学を学ぶ。 ケンブリッジで2年間、西洋教育の薫陶を受けた。 また、欧米のロマン主義と唯美派の詩人の影響に染まった。 1921年、新詩の創作を始める。 1922年、帰国後新聞紙上に多くの詩を発表する。 1923年、新月社に関与し発足させる。 文学研究会にも加入する。 1924年、胡適、陳西等と週刊“現代評論”を創刊。 北京大学教授になる。

 

インドの大詩人タゴールが訪中した時、通訳をする。 1925年、ヨーロッパへ行く。 ロシア、ドイツ、フランス、イタリアなどを回る。 1926年、北京で“報”の文芸欄の詩の編集を担当、聞一多、朱湘等の人達と新詩運動を展開、新詩芸術の発展に影響を与える。 同年、上海に移り、光華大学、大夏大学、南京中央大学の教授となる。 1927年、新月書店の設立に参加する。 翌年、月刊“新月”創刊、編集となる。 また出国し、イギリス、アメリカ、日本、インドなどを回る。

1930年、中華文化基金委員会委員となり、英国詩社社員に選ばれる。

同年冬、北京大学と北京女子大学の教授となる。 1931年初、陳夢家、方徳と季刊“詩刊”を創設。 ペンクラブ中国支部の理事に推薦される。 同年11月19日、飛行機で南京から北京へ向かう途中、霧のため済南付近で山に激突、死亡する。

 

著作は、詩集《志摩の詩》、《翡冷翠の一夜》、《猛虎集》、《雲遊》、散文集《落葉》、《パリの断片》、《自》、《秋》、小説散文集《ハンドル》、脚本《卞昆岡》(陸小曼と共著)、日記《愛眉小札》、《志摩日記》、翻訳書《曼殊斐尔小説集》等。 彼の作品は、《徐志摩文集》として出版されている。

 

徐志摩の詩は斬新で韻律の調和もよく、比喩は奇抜で想像力も豊富、作品の感じは軽妙で洒脱、変化に富んでいる。 その洗練された芸術的表現から、新月派の代表詩人といわれる。 

 

彼の散文も独自の風格を持っており、詩歌に引けを取らない。 そのうち《自》、《想飛》、《私の知ってるケンブリッジ》、《翡冷翠山居閑話》などは後世に残る名篇である。

 

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232 中国は見る(119)  民主新代表に小沢一郎が選ばれる

2006-04-08 10:58:00 来源:人民网(北京)收藏此页网友评论0  日最大在野党民主党新领导人产生小泽一郎

2006-04-08 09:29:48 来源:金羊网-新快报收藏此页网友评论2条 鹰派政客当选日民主党代表∶日政治走向堪忧

2006-04-09 15:53:00 来源:中国新闻网收藏此页网友评论12 日民主党新党魁:甲级战犯迁出后首相天皇可参拜

1.日本最大野党民主党の新代表に小沢一郎

新華社電:日本最大野党の民主党は、7日午後、東京で選挙の結果、小沢一郎が同党の新代表に決まった。

同日午後、民主党衆参両議院大会で行われた無記名投票で、小沢一郎が119票対72票で対抗馬の菅直人を下した。 63歳の小沢一郎は、かって自民党幹事長、新進党党首、自由党党首を歴任した。 彼は一貫して、日本は二つの党が代わる代わる政権を担当すべきだ、また、中国、韓国などアジア各国との関係を重視すべきだと主張している。

2.タカ派政治家民主党代表に:日本の政治は憂うべき状況に向かう

前原前民主党代表の引責辞任後、民主党は4月7日、新代表選出を行い、タカ派の小沢一郎が民主党代表に選ばれた。 

共同通信社の報道によると、その政策綱領に小沢一郎は、八つの改革を挙げており、その中には社会保障、中国、韓国との関係改善も含まれている。 小沢一郎は積極的に日本の再武装を主張し、日本をまた軍隊を持つ“普通の国家”にしようとしている。

彼の“普通国家論”は、日本をほかの国のように、軍隊を持ち、核兵器を所有することにあり、その核心は、平和憲法第9条を廃棄し、憲法を改正して派兵できるようにすることである。

日本はタカ派の支配下に置かれる。

小沢一郎が民主党を制したことに伴い、政権担当の自民党と野党の民主党のタカ派的人物がが相継いで国を動かすことになる。

今後日本はどの政党が登場しようと、憲法を改正して派兵の動きが加速され、軍事大国へ向かって突き進むことになる。

日本の政治は憂慮すべき方向へ向かっており、アジア各国は警戒しなければならない。

3.民主党新代表:A級戦犯問題を解決し、天皇も首相も参拝できるようにする

中新ネット4月9日電:共同通信社の報道によれば、民主党小沢一郎新代表は、日曜日、もし14名のA級戦犯問題を解決し、本来の靖国神社に戻せば、天皇も首相も参拝できるようになる。

小沢一郎はNHKのテレビ番組の中で、“いわゆるA級戦犯は靖国神社に祀られるべきでない。 靖国神社は戦争で亡くなられた方を祀るところだ。 もし、靖国神社を本来の姿に戻せば、私は天皇も首相もそこに参拝してもよいと思う。 1978年に靖国神社が14名のA級戦犯を合祀したが、彼等には日本を戦争に導いた責任がある”

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231 中国の三面記事を読む(18) ハリウッド“南京大虐殺”を映画化へ ①

www.JSxinhuanet.com 2006-04-02 16:12:38 来源:本网综合

http://ent.tom.com 2006-04-03 10:11 来源:东方早报

来年は“南京大虐殺”70周年である。 中、英、米三ヶ国共同出資で、1937年、日本軍が行った南京大虐殺の歴史を再現する。 題名は“南京の惨劇”、今年7月にクランクイン、来年12月“南京大虐殺”70周年記念に合わせ全世界で公開する。 

内容は、亡くなった中国系米国人女性作家・張純如(アイリス・チャン)(1968-2004)のベストセラー“ザ・レイプ・オブ・南京”を基に、脚本家ウイリアム・マクドナルド(William Mcdonald)がシナリオを書く。 南京を訪れ資料集めをしているウイリアム・マクドナルドは、昨日取材に対して、映画化に当たっては、念には念を入れるため、南京に行き現地を見ると共に、南京大虐殺の生存者に会ったり、沢山の歴史資料を読み漁っている。 生存者に会って感ずことがあった。 最初は、これらの人は考えていなかったが、映画の中に、彼等の写真を入れ、実名も出し、彼等の体験を再現するようにしたい。 “南京の惨劇”は 中国の普通の家庭の母娘が虐殺を生き残り、中国人には見るに忍びない痛ましい惨劇を振り返るものだ。 同時に、母親の目を通してみた外国女性と西洋文化、その中でのぶつかり合いと大いなる救いを描く。 この映画は“人間性と愛”を主題にすると強調した。 

一貫して商業(娯楽)映画を作ってきたハリウッドが、このような政治的題材を取り上げることを、多くの人が理解できないことについて、マクドナルドは、 ハリウッドは、娯楽ばかり撮ってるわけではない。 歴史映画に非常に興味を持っている。 南京大虐殺というこの歴史は、中国とアジア以外、あまり知られていない。 この歴史を世界の人々に見せることは有意義なことと思う。 だがハリウッドは、もちろん商売も考えなければならない。 誰がこの映画の母娘を演じたらいいかも考えている。 今、考えているのは楊紫瓊(ミシェル・ヨー)が母親をやり、

張子怡(チャン・ツー・イ)が娘役がいいのではないか。 楊紫瓊(ミシェル・ヨー)にとっては母国だし、張子怡(チャン・ツー・イ)にとっては、西洋の人からは東洋女性の象徴だ。 以前はそれほど有名ではなかったが、“SAYURI”(艺妓回忆录)で一躍名前が知れ渡り、今では一番有名な中国女性だ。 私は彼女が好きだし、この映画の娘をやってほしい。

もし、張子怡(チャン・ツー・イ)が出演できるなら、監督は第65回アカデミー賞の《許されざる者》でオスカーを取ったクリント・イーストウッドにお願いしたい。 彼なら映画の売れ行きなど気にしないだろうから。

聞くところによれば、イギリス政府は200万米ドルの支出を認可したそうだ。 中国も3億元(約45億円)を支出する。 ロケ地は主に南京で撮影し、2007年9月1日までには完成させ、12月全世界で公開の予定。

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230 中国の三面記事を読む(17) 林徽音と徐志摩 《中》

テレビドラマ《人間四月天》

内容紹介: 1922年秋、詩人徐志摩はイギリス・ケンブリッジの留学から帰国すると、離婚通告なる奇想天外な文章を発表した。 まだ文名など全く知られていなかった彼だが、このトップニュースが中国を揺るがした。 近代史上初めての西洋式離婚事件となり、百年も前の中国の封建的婚姻制度に挑戦状をたたきつけた。 徐志摩は、そのときこのような文章を書いた。 “私はこの茫々たる人波の中から、私の唯一の心の伴侶を探し求める。 見つかれば幸せ、見つからなければ運命”  これは徐志摩が自分の短い一生についての注釈ともいえる。 “心の伴侶を探し求める”というこの言葉は、徐志摩のわずか36年の人生の中で体験した三つの遍歴、三人の全く違う女性との交錯が、この詩人徐志摩を作り上げたと言えるし、また彼によってそれぞれの女性の運命が変えられたともいえる。 

徐志摩は20歳の時、両親の勧めるままに、16歳の妻を娶り子孫を残すための義務を果たした。 それからヨーロッパに渡り勉学しようとした。 故郷にいた妻・張幼義は、夫にしっかりついていけば、夫の心が掴めるだろうと思った。 しかし、彼女が遥か海を越えてイギリスに着いた時に見たものは、才気溢れた美しい娘・林徽音と仲良くしている徐志摩の姿だった。 林徽音は徐志摩達夫婦の問題にかかわることを恐れ、慌しく父と共に中国へ戻る。 

徐志摩は封建的で不合理な結婚に嫌気がさし、決然と離婚要求を出す。 そして、張幼儀に対して、自分と同じように彼女自身も新しい生活を探し、封建思想から脱却し、社会の先頭に立つよう促した。 異郷の地にあり、また身重だった幼儀は、孤立無援の中で、何度も生きる勇気を失いかけたが、最後は、しっかりと自立できるまでになり、徐志摩の要求を受け入れ、異郷の地で自分の人生を切り開くことを決意する。

離婚後の張幼儀は、ドイツへ留学し、その後帰国してから上海の商業銀行の仕事を引き継ぐことになる。 生涯、徐志摩の世界から離れることはできなかった。 それ以降、彼女は夫の実家と奇妙な関係を続けていて、事業を共同経営したり、徐志摩の両親の面倒を見たり、葬儀も彼女が執り行った。

徐志摩は、林徽音との新しい未来を夢見て、後を追って帰国したが、帰国してすぐ耳にしたのは林徽音が両親の勧めを受け入れ、すでに婚約したということだった。 相手は彼の恩師の息子-------梁思成。

これは徐志摩にとっては痛烈な打撃だった。 複雑に絡み合った関係、にっちもさっちもいかない局面、もつれて収拾がつかない気持ち、これがこの時の、徐志摩と林徽音の心だろう。 この間のことは誰も口をつぐんでいるのでわからない。 ただ詩の中に秘密がもれ伝わるのみ。

林徽音は梁思成との結婚を選んだものの、徐志摩との気持ちを忘れることができない。 一方、徐志摩の方も最初は春風のように心地よく、この春風に向かっていたのに、今はただ愁いが胸をふさぐ。 林徽音とのことは絶望的だ。 徐志摩は苦しんでいた。

正にこの時、北京の社交界に美しい陸小曼が現れた。 彼女には夫がいたが、やはり封建的結婚に息が詰まり、同じように愛情を求めていた。

たちまち詩人の情熱に呼応することになる。 徐志摩は彼女を封建的な結婚から救出し、二人の自由な精神、美しい人生を作ろうと思った。 二人は家族の反対、社会世論の圧力をものともせず、ついには祝福されざる結婚をした。 

当時の人々は、彼等の愛は、お互いをダメにするだろうと噂しあっていた。 事実はその通りだった。 徐志摩は彼女のため評判がメチャメチャになるし、両親とも気まずくなる。 また彼女は金を湯水の如く使うので、金策のために駆けずり回ることになり、心身ともに疲労困憊してしまった。 彼女は徐志摩に愛情の解答をしたといえるし、彼に人生についての疑問符を投げかけたとも言える。 詩人の人生の最後は彼女のところで悩むことになった。

結婚後数年間の精神的に不安定な生活は、徐志摩を果てしない疲労と苦しみ、幻滅感を味あわせた。 詩作も出来なくなり、生活のため南に北に、教師生活を続ける。 そして最後に、この慌しい短い人生を思わぬことで終えることなる。 北京で林徽音の講演を聴くために乗った飛行機が山にぶつかり命をおとしてしまうのだ。 いたずらっ子のような

笑い声を友達に残し、まだ働き盛りの中、突然自分の華やかな人生に幕を下ろした。 同時に彼を愛し、彼が愛した人達に驚きと終生の思い出を残すことになった。

林徽音と徐志摩のこの生涯続いた未完の愛も、後世に解けない謎として残ってしまった。 彼女の夫・梁思成の彼女に対する気持ちも沈黙したままで、これも謎となっている。 梁思成自ら志摩の飛行機の残骸を一つ拾って北京へ持ち帰り、それを林徽音は死ぬまで机の上に置いてたそうだ。 数年後、彼女は徐志摩に捧げる詩を発表した。 彼女は死ぬ前に張幼儀に会うことを望みはじめて会った。 しかし、何の話もしなかったという。 張幼儀は、彼女の徐志摩に対する愛がわかったそうだ。

陸小曼は徐志摩が死んだ後、別人のようになり、彼女は数年かけて彼の遺作を集め出版し、そして生涯華やかな服を着ることなく、化粧もせず、公の席に出ることもなく、それ以降自分の華やかな姿をこの世から消してしまった。

真実の愛を求めると宣言した徐志摩、彼の一生は不幸な結婚で、心の生活も満たされることもなく悲劇的に終わってしまった。 しかし彼は一生、自分の魂たる詩歌で声高らかに歌い上げ、この世の理想としての「真善美」を追い求め、みんなの心を感動させた。 或いはこれが、彼の物語が中国人に記憶される原因かもしれない。

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229 中国の三面記事を読む(16) 林徽音と徐志摩 《上》

http://cul.sina.com.cn/s/2004-06-09/61233.html  林徽音与徐志摩

近現代文学史上、“林徽音”というこの名前は“徐志摩”という名前によって存在し、名高くなったといえる。 私も徐志摩から林徽音を知り、その後、林徽音から梁思成のことを知ったわけだ。 大部分の読者も私と同じではないかと思う。 そうして見ると、梁思成にはちょっと可哀相な感じもして、私は同情してしまう。 (実際、梁啓超の息子として梁思成は、1949年以降、中国建築界の創始者となり、当代きっての建築学部-----清華大学建築学部は梁思成がつくったものである。 しかし、彼は文学をしなかったため彼の名前を知る人は少ない)

徐志摩も名門の出身で、今風に言うなら資本家出身。 彼の父親・徐申如は、浙江省硤山鎮の大金持で、有名な銀行家である。 父親の希望もあって徐志摩が家業を継ぐことになっていた。 それで西洋に留学する時、経済学を学ぶことにしていた。 しかし程なく、経済に向いてないとわかり、文学家と付き合うようになり、次第に経済学は疎かになった。

間もなく中途退学し、ヨーロッパ各国を巡り歩いた。 ロンドンで、有名な書道家であり詩人の林長民が来ているのを聞き、訪問して教えを請おうとした。 そこで図らずも林徽音とめぐりあい、たちまち恋に陥ることになり、後世文学史研究家達に格好の研究課題を提供することになる。

林徽音と出会った時、徐志摩は2歳の子供の父親だった。 24歳の彼は林徽音より8つ年上で、お兄さんといったところだ。 その時、彼の妻・張幼儀と子供はロンドンに一緒に来ていた。 徐志摩が何度も猛アタックをしたことにより、林徽音の固い防御が決壊寸前になったとき、彼女は徐志摩にこう言った。 “私はいい加減なことはきらいです。 私か張幼儀か、どちらか選んでください” ロマン主義的な徐志摩は、家へ戻ると張幼儀に離婚を切り出した。 張幼儀は突然のことではあったが、理知的に対応し、すぐさま子供を連れてドイツへ留学してしまった。 《徐申如は息子が妻と子供にこのようなことをしたと聞いて、怒って父子の関係を絶つと宣言して送金をストップし、銀行の仕事と財産を張幼儀に主管させることにした。 これ以降、この徐家の息子は自分の手で生活しなければならなくなった。 張幼儀の一番上の兄は張君勵といい民国初めの政界の大物、二番目の兄は張嘉敖は当時の政府の中央銀行総裁だった》

林徽音は第三者ではあったが、この結果は深刻なものがあった。 実際は徐志摩も第三者となる。 というのは林徽音がこの後間もなく梁思成と婚約するからである。 ここで面白いのは、父親の林長民が娘と徐志摩の間を認めておきながら、自分が可愛がっていた娘を梁家の息子にやるという約束を、すっかり忘れていたことである。

林徽音、徐志摩の親密な時期は長続きしなかった。 林長民がヨーロッパ周遊から戻ると、彼女は父親について帰国することになる。 徐志摩が追っかけるように帰国したときには、林徽音はすでに梁思成と婚約していた。 徐志摩は梁啓超の学生でもあったので、先生の前では自分の感情を抑えるしかないではないか? しかし、陸小曼に会う前の徐は、一途に林徽音を思っていた。 それで、いつも梁、林家の常連客となっていた。

梁思成、林徽音はアメリカに行った。 が、しょっちゅう喧嘩し、激しく言い争った時に、林徽音は中国の徐志摩に手紙を送った。 そんなことだから徐志摩は林徽音に対し、ずっと淡い幻想を抱いていた。 梁思成、林徽音が勉強を終えて帰国し、東北大学で教授になった頃から、林徽音は身体を悪くし、北京の西山で一時期療養していた。 梁思成は傍にいなかった。 この時期、彼はひんぱんに西山に林徽音を見舞った。 この時のことで、後世の研究家は徐志摩と林徽音の関係が、もう一線を越えたと見る向きもあるが、はっきり証明することができない。 だから、徐志摩と林徽音の気持ちがどこまでいっていたのか、今に至るも未解決の謎となっている。 ほどなく、徐志摩は北京の舞踏会で、夫のいる陸小曼と知り合う。 徐志摩は、今度は陸との結婚に踏み出す。 

徐志摩は結婚したが、決して幸福ではなかった。 というより不幸だった。 友達によくこぼしていた。 その相手は、胡適や林徽音、凌叔華などだった。 1931年、徐志摩が事故(飛行機)で亡くなるまで

続いた。 林徽音は、1931年と1934年、それぞれ徐志摩を追悼する二編の文章を書き本心を述べている。

徐志摩が林徽音に与えた影響は大きいもので、もし徐志摩がいなければ、林徽音が文学をするなんてことはなかっただろう。 またロンドンで知り合った時、徐志摩は林徽音によく詩を書いて見せた。 林徽音の子供である梁従誠は“林徽音文集”の中で、林徽音は子供達に自分の口からこう語ったと言っている。 徐志摩は多くの詩を林徽音に送った。 一番有名なのは“偶然”。 しかし、私達が“偶然”を読んでも、どうしても林徽音に書いたようには思えない。 それは徐志摩が林徽音という存在に対し、こんなにおおらかだったことがなかったからだ。 もちろん、もし徐志摩の影響がなかったとしたら林徽音は、建築方面でもっと成功を収めただろう。 

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228 今年の桜

2006年の花見

あちらこちら、ブラブラ歩いて見てきました。

年年歳歳花相似たりですが、やはりいいものです。

1.2006年3月29日

① 上野公園

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② 隅田川

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③ 浜離宮

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2.2006年3月30日

神田川(芭蕉庵から面影橋まで)

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3.2006年3月31日

① 井の頭公園

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② 外堀公園《新見附ー飯田橋)

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4.2006年4月1日

① 新宿御苑13_140_2 13_140_3 13_141_1 13_148_1 13_142_1 13_149_1 13_154_1 13_164 13_157

13_167_1 ② 千鳥が淵

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227 中国の三面記事を読む(15) 京都・奈良を空襲から守った中国人・梁思成 ⑦ 梁思成の夫人:林洙

梁思成と林洙の結婚

2005-04-14 16:48  名人婚恋∶他给了我快乐---林洙与的婚姻

http://www.sina.com.cn

夕方、清華大学の西南の住宅地。 白髪の老婦人が庭で黙々と乾いた服をしまっていた。 夕日がまがきとつたのあたりを照らしている。 口数のすくない息子が、孫娘を小学校へ迎いに行き戻ってきた。 しばらくすると、娘も学校の図書館の仕事を終えて帰ってきた。 台所から夕飯のいい匂いがただよってきた。 このありふれた老婦人こそ、有名な建築家梁思成の未亡人・林洙(1928年、福建省福州市生まれ)である。 

1962年、林洙は彼女より27歳も年上の梁思成と結婚した。 年齢のこと、学識や生活体験の大きな隔たりなどでさんざん悪口をいわれた。

資料館職員という職業、前夫との離婚なども人々が非難する理由の一つだった。 また当然ながら林洙は、建築界の第一夫人になりたいんだと噂する人たちもいた。

外部の人の議論以上に、身内からも反対が起こった。 長女の梁再は、特にこの結婚に大反対。 叔《伯》父さん、叔《伯》母さん達を説得し、みんなの連名で手紙を書かせて梁思成の再婚に反対した。 林洙は、当時いつも、道を歩いていると人が後ろで何やかやといっているようで、心休まる日がなかったという。 梁思成が子供たちと疎遠になり、兄弟姉妹達とも付き合わなくなったことを、彼女は自分が原因だと思い、ずっと気にしていた。 ところが梁思成の方は、平然としていて、彼女を励まし慰め、全ての非難を一身に受けていた。

“文革”の災難が来た時、彼女は“反動学問の権威”を懸命に守った。 梁思成に付き添ってその苦しい年月を歩み、彼に精神的な慰めを与えた。

1966年から1969年まで一月分の給料62元(約900円)で、一家5人の面倒を見ていた。 梁思成と二人の子供それと林徽因の母親何雪媛だった。 彼女はこのお母さんの面倒はよく見なければと思っていた。 梁思成が亡くなる前に彼女にたのんだことでもあるのだ。 林洙は、この母親を90歳余りで亡くなるまで面倒を見た。

1973年から、彼女は全力で梁思成の遺稿を整理し、“梁思成文集”“梁思成建築画集”“梁思成全集”等の編集にも加わった。 

時移り状況もすっかり変わってしまった。 その人も今はいない。 彼女にこの長い年月得たものはなんですか? と訊いてみた。

林洙は泰然として答えた。 “彼は私に楽しみをくれました”

この女性の楽しみの裏には、自分の身分の低さ、誠実さ、我慢強さがあった。  梁思成の生前の学問の成功、また林徽因の死後の名声の前では、この学歴もなく地位もない女性の後半生は、明るい光に隠れた物言わぬ花だった。 彼女は、これは当然ですと思っている。 あれはほかの人の光であって、彼女の身には射しっこない。 苦楽を共にした夫でも、このか弱い女性を助けることができなかったのか? 梁思成がどうしてそういうことがわからない人であろうか? 引王志の“城記”という本の中に、梁が臨終の時、彼の友達で都市計画専門家の陳占祥を呼んだ。 彼と梁思成は解放初期に北京の古い姿を残すために奔走した。 梁思成は陳の手をとり、しみじみと言ったという。 “ここ何年も林洙には面倒をかけた”

梁思成は1972年、世を去った。 林洙はその時、44歳だった。

30数年が過ぎた。 彼女は再婚の気持ちはまるでなかった。 “子供と一緒なら、それでいいんです” 彼女は父親の教えに従い良妻賢母となった。 彼女の一生は学問がなくただ親切だけだった。 非難や悪口にも、恨み言一つ言わなかった。 “これは自分が選んだことです。

私は気が弱くはありません。 ただ我慢強いだけです“

と自分をこう評した。

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226 中国の三面記事を読む(14) 京都・奈良を空襲から守った中国人・梁思成 ⑥ 梁思成の夫人:林徽音

林徽音(1904-1955)10 08

中国の福建省閩の人。 1904年6月10日杭州に生まれる。 建築家、教授、詩人、作家。 才気ある女性で美人。 若い時の林徽音の写真を見ると、すがすがしい輝くばかりの笑顔をしている。 

父親・李長民は芸術家でロマンチスト。 その父の教育により林徽音は早い時から一種の芸術気質を身につけており、それに生来早熟で聡明な女の子だった。 1916年北京培華女子中学に入る。 1920年、彼女は父親に連れられてロンドンに行った。 そこのセントメリー女子学院(St. Mary’s Collegiate School)に入学、すぐ流暢な英語を話した。

林徽音は、小さい時から父親とを共に暮らしていたので、中外の有名人、知識人との応対はしょっちゅうで、正に家の女主人のように振舞っていた。 この社交活動から林徽音は、付き会い方、起ち居振る舞いなどを身につけたので、男性の注目を引き付けていた。 一番関心を持ったのは、誰かというと詩人の徐志摩だった。 その頃彼女より10歳近く年上の徐志摩は、この女の子の聡明さと光るものに引き付けられた。

彼女の文学の才能に、このケンブリッジの詩人は傾倒し、たちまちその虜になってしまった。 彼女と一緒の時には、英国詩人のシェリー(Shelley)、キーツ(Keats)、バイロン(Byron)、バージニアウルフ(Virginia Woolf)などの作品の世界を案内していた----------が、林徽音の前では自分の気持ちを抑えられなくなっていた。 妻の張幼儀と離婚し子供を捨てても構わない。 林徽音を精神的伴侶としたいと望んだ。

その時、彼女はまだ16歳だった。 林徽音は、結婚していた徐志摩に対し、終始一線を画していた。 

もう一人は梁思成だった。 梁啓超の息子。 梁啓超と林徽音の父親は親密な間柄で、二人は子供が小さい時に、冗談で娘をやると言っていたほどの仲だった。 梁思成は林徽音同様、建築に興味を持っていて1924年、二人は共にアメリカのフィラデルフィア・ペンシルベニア大学に留学し、梁思成は建築を専攻、林徽音は美術を学んだ。 お互いの専攻学科は緊密な関係にあった。 ところが二人の性格と気性は全く正反対だった。 梁は生まれつき融通が利かないほうで、型どおりの堅物タイプ。 仕事もいい加減なことは許さない。 一方、自由を愛し空想好きの林徽音は、ことごとく違っていた。 何かパッと思いつくたちで、規律を破ることはしょっちゅうだった。 設計図の提出期限ぎりぎりまで頑張ってもできなくって、梁思成がいつも手助けし林徽音のメチャクチャな下書きをきれいな設計図に仕上げていた。 相互補完的な二人の性格は、この時期に磨きをかけられ、それぞれの特質となっていった。

林徽音が才女であることは、嘘ではない。 彼女は学校の宿題をほとんど一番の成績を取っていた。 まれには二番のこともあったが。 友達から見た彼女はしとやかで、ユーモアがあり控え目で、自分の成績の良いことを自慢することはなかった。 林と梁は、1927年ペンシルベニア大学を卒業した。 本来、四年の学業を三年で終えてしまった。 1928年、二人はオタワで結婚した。

林徽音は、中国の古い時代から新しい時代へ変わる時代のインテリ女性だ。 小さい時から西洋の教育を受け、外国で自由な生活を送った。 そして、結婚して帰国してからは、妻として母として一家を切り盛りし、家の中のどんなことも彼女が決定した。 家の中では、彼女は良妻賢母で梁思成を煩わせることはなかった。 家庭をきちんと守ったほか、同時に建築の図面や詩歌の創作もやっていた。 ただ、日々の暮らしの中では雑事が多く、いつも人のためにあれこれ相談に乗ることが多かった。

林徽音の身体は磁気を帯びてるみたいで、周りの人がみな吸い寄せられ、みんなが彼女に思いのたけを話し、彼女のそばにいると安心に思えた。

作家の蕭乾が初めて彼女に会ったときのことをこう書いている。 “--------この人の肺病は、相当悪いと聞いていた。 その当時の肺病は今の癌のように恐ろしいものだった。 私はてっきり寝巻き着て、横になったまま私と会うんだろうと思っていた。 しかし、その日の彼女は乗馬服で、話もよくしゃべり、早口で、元気そうだった--------私が受けた印象は、彼女からは病気なんてまったく感じなった。 健康な人よりはるかに元気で口も達者だった。 みな彼女のことを“お嬢様”と呼んでいたが、口をすぼめてにっこり笑う、ただのお嬢様ではなく、学識豊かで頭の回転が速く、舌鋒鋭い評論家だった”

病気の時の林徽音でさえこのように印象が強いのに、まして健康な時の彼女はどうだったろう。

この才能のある夫婦は、相次ぐ戦争の中、生活は困窮を極めていた。

林徽音はベッドで過ごすようになった。 病院のベッドに横になっている彼女は病気のことで人に弱音を吐くことはなかった。 逆に、暇をもて余している時、病院の建築を観察しては自分の見解を書いたりしていた。 この女性の建築に対する鋭敏な反応と愛情が見て取れる。 また、気分がいい時には詩興が湧くみたいで、よく詩を書いて投稿していた。

ロマンチックな気持ちは変わらなかった。

以前、ある若い女性が林徽音をこう形容した。 “--------彼女はあんなによくしゃべり冗談を言う、私はしょっちゅう「クックッ」と笑うだけで、もう口なんか挟めない。 彼女は私が今までお会いした人の中で一番きれいで、風格がある方です。 もちろん、私がお会いした時には、彼女は40をいくつか越しておられ、病魔に苦しめられのようになっておられました。 でも一旦彼女と向き合うと実体の林徽音は見えなくなります。 感じるのは彼女の心と知識と美しい光。 私はしばしば彼女のこの素晴らしさにうっとりしていました----------”

女性がもう一人の女性を褒めることは、そうあることではない。 ましてやこれは梁思成の二番目の奥さんになる林洙のいった言葉である。 彼女は林徽音に対し嫉妬ではなく、心から素晴らしいと思った。 林徽音の魅力にあったことがわかる。 ただこの女性は、生きている時は、周りの人のためにばかり気を使って、自分の才能を十分に発揮することができなかった。

林徽音《深夜里听到乐声》(深夜に楽しい声を聞く)

生命早描定她的式様

太薄弱

是人們的美麗的想像----------

(彼女の命の図面はとっくに描かれていた 

弱弱しく

人々が美しく想像する----------

1955年4月1日、林徽音は持病の肺結核のため死亡、死去した時、50を過ぎたばかりだった。

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225 中国の三面記事を読む(13) 京都・奈良を空襲から守った中国人・梁思成 ⑤ 梁思成のプロフィール

1901年4月20日 日本・東京で出生。Xin_2607011516414682405915

1972年1月 9日 中国・北京で死去。

梁思成は中国の著名な建築家、建築史学家、教育家である。 一生を中国の古代建築と文化遺産の保護に尽力した。 中央研究院院士、中国科学院哲学社会科学学部委員も歴任した。

梁思成の父親・梁啓超は有名な改革家であり、清朝政府の弾圧を避けるため出国した。 そのため梁思成は、日本の東京で生まれる。 1912年の辛亥革命後、父に従い中国へ戻る。

1924年、婚約者の林徽因と共にアメリカ・フィラデルフィアのペンシルベニア大学建築家で学ぶ。 三年で学士と修士を修得、その後ハーフォード大学で一年間建築史を学ぶ。

1928年結婚後、ヨーロッパ各地の建築を視察。 帰国後、瀋陽の東北大学で先生になる。 同時に建築士事務所を設立した。 東北大学の本館を設計・建築した。 また清の昭陵の測量・調査を行った。 当時の瀋陽の鐘鼓楼の保存にも尽力したが、同地政府の同意を得られず、取り壊されてしまった。

日本が東北《満州》に侵略してから梁思成は、1931年、北京に戻り民間機関の“中国営造学社”に入り仕事をした。 そして真剣に古代の建築を整理・研究した著作《営造法式》を書いた。 同時に交通が不便で、戦乱で社会が騒然としていた時代に、大変な危険を冒して妻の林徽因と一緒に、昔のまま残っている多くの古代建築を発掘したり実地調査・測量・作図を行った。 その中には、天津の薊県の宋朝建築で独楽寺観音閣、宝坻の遼代建築・広済寺、河北正定の宋代建築・隆興寺、山西の宋代応県の木塔、大同の遼代寺院の華厳寺、善化寺など、河北趙州の隋朝建造の安済橋、山西五台山の唐朝建築佛光寺などがある。

彼は調査結果を文章に書いて国外に発表し、国際的にもこれら文化財は注目された。 また故宮の文淵閣を修復する工事も指揮を執った。

七七事変(1937年7月7日の盧溝橋事件)後、日本人が彼に“日中友好協会”を組織するよう呼びかけてきた。 彼は家族を連れ後方に相前後して移動し、昆明から重慶李荘に落ち着いた。 この地で多くの建築家を育て上げた。 そしてまた保護すべき重要な文化財の地図を作成し、アメリカの空軍兵士に提出し敵地を爆撃する際、その場所を避けるよう注意させた。 後方にいる間、四川の彭山の漢朝時代の崖墓を調査した。

1945年、日本が投降すると北京へ戻り清華大学で建築科の主任となり、1946年、アメリカのエール大学の招きに応じ客員教授となる。

また、プリンストン大学の名誉学位を得る。 ニューヨークの国連本部ビルの設計諮問委員会の中国代表に指名され、この期間に世界で有名な建築家達と知り合い一緒に仕事をした。 次の年帰国した。

解放軍の求めに応じ、北京で保護すべき場所を図面で作成し砲撃から守った。 中華人民共和国成立後、北京市計画委員会副主任を兼任し、人民英雄紀念碑の設計の中心メンバーとなった。 彼は北海の団城と北京の城壁を救うよう何度も上申書を提出した。(城壁は、彼が亡くなった後取り壊された)

彼は北京の古い建物と城壁を守るよう主張した。 そして新しい北京を西の郊外の方に建てるよう提案した。 旧北京城を守り、旧城のところには高層建築を建てないよう要望したが、この提案は採用されなかった。

もし彼の提案が採用されていたら、北京市はきっと違った顔になり、歴史的文化の名都市になっていたかもしれない。 彼の提案が通らなかったことは、人類の文化に計り知れない、そして取り返しの出来ない損失だ。 人類永遠の心残りでもある。

彼が調査・発見した多くの古い文化財は、今もそれぞれの地で誇りある文化の旧跡となっている。 彼が唯一設計した唐代の風格のある建築作品は、揚州の大明寺の鑑真和尚紀念堂で、彼の死後完成した。

文化大革命中は、“復古”の典型とされ批判された。 その後、名誉と党籍は回復したが、貧乏と病気の中、世を去った。

彼の遺作“図入り 中国建築史”は出版後、英訳本は1984年アメリカ出版連合会学術専門書籍金賞を受賞した。 中国語版は1992年、中国出版協会賞を受賞した。

後になるほど彼の貢献の重要性は、後代の人にも知られるようになった。

 

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224 中国は見る(118)  中国 やはり靖国には行くなでした!

胡錦濤主席 中日関係を分析:仲が良ければ双方に利益、仲が悪ければ共に益なし

 

2006-03-31 20:35:00 胡錦濤详析∶和则两利斗则俱损

来源∶中国新闻网收藏此页网友评论2380

 

中新ネット3月31日電:胡錦濤中国国家主席は本日、人民大会堂で日本の日中友好7団体の代表、橋本龍太郎,高村正彦、平山郁夫、辻井喬、千速晃、野田毅、林義郎等と会見した。

 

胡主席は、中国の民間交流を緊密にし、中日関係の改善と発展を促進するなど友好的談話を語った。 

 

胡主席はまず、日中友好7団体の代表が揃って訪中したことを歓迎し、日中友好7団体が長期に亘り、日中の国交正常化実現に尽力し、中日の友好関係を促進するため強力な貢献をしたことを高く評価した。 また目下の中日関係が困難に直面している中、訪中し中日関係友好団体と対話の交流を進めることは、中日両国人民の関係改善の希望の表れと思う。 私は、あなた方の訪中が両国人民の理解と友誼を深め、中日関係の改善と発展にプラスになることと信じている。

 

胡主席は、戦後の中日関係の回復と発展の友好の歴史を振り返ってみれば、事実が証明している通り、中日関係は仲が良ければ両国にとって利益となり、ケンカすると共に利益がないということだ。 中日が友好関係を築くことは両国人民の根本的利益に合致するものであり、アジアと世界の平和と安定に重要な貢献をするものである。 しかし近年、中日関係は困難な局面が現れた。 両国人民は憂慮し、国際社会は関心を持っている。 こういうことは私達が見たくないことだ。 こうなった原因は、責任は中国側にはないし、日本人民にもない。 問題は日本のほんの一部の指導者がA級戦犯を祀る靖国神社参拝を繰り返し、中国人民の感情を傷つけ、中日関係の政治的基盤を壊したことにある。

 

中国政府は一貫して中日関係を重視している。 中日関係は現在世界でも重要な、二国間関係の一つであり、両国関係の改善と発展にたゆまぬ努力をしてきた。 私は過去何度も、歴史、人民、未来に対し責任ある態度を持って中日関係に生じた問題を適切に処理するようあたってきた。 歴史に対する責任は、歴史の事実を尊重することであり、歴史の教訓を汲み取り、歴史の悲劇の再演を防止することだ。 人民に対する責任とは、常に両国人民の友誼を深め、両国人民の本当の利益を図り、中日関係発展のための出発点と着地点を見つけることだ。 未来に対する責任とは、平和共存を堅持し、代々友好が続くよう、共同して両国の友好と協力を作り出す美しい未来のことだ。

 

中国政府の対日関係の立場はハッキリしており、一貫した確固たるものだ。 中国政府は、常に高度な戦略と長期的角度から中日関係を見ており、両国の平和共存、代々友好、互恵協力、共同発展のために力を注いでいる。 また“中日共同声明”等の三つの政治文書の原則を堅持し、引き続き“歴史を鑑とし、未来に向かう”の精神に基づき平等に話し合い、両国間に存在する問題を適切に処理し、中日友好の大局を維持していきたいと思っている。 中国政府は“隣国とは仲良くし、隣国を友人とする” という周辺外交方針を実行し、双方の広範な分野の交流と協力を積極的に進め、両国人民の友好的感情の増進に努めている。

 

日本の指導者がA級戦犯を祀る靖国神社を、二度と参拝しないと明確に決断をするなら、私は中日関係の改善と発展、日本の指導者との会談と対話をしてもよい。 

 

胡主席は更に、中国は平和の道を堅持し、平和な国際環境を目指し発展させる。 そして自身の発展を通じて世界平和を促進する。 我々は、日本を含めた世界各国と共に平和を守り、共に繁栄ある調和をもった世界を作っていきたい。 中国は独立自主の全方位の平和外交政策を実行し、いかなる国に対しても脅威を与えたり挑戦する意志はない。 世界各国と平等に、友好的に共に発展することを希望している。 中国が実行しているのは防御的国防政策であり、中国の国防は防御能力を増強すること、国家主権を維持すること、国土の保全だけのためだ。 中国は過去、現在、将来とも覇権を求めることはしない。 “中国の発展は脅威”とする言い方にはまったく根拠がなく、全く認められないものだ。

 

胡主席は最後に、中日関係の美しい未来を作るためには、両国人民の広い支持と積極的な参与が欠かせない。 また両国の友好団体の友人達の一層の支援をお願いしたいと述べた。 両国の民間友好団体が確固たる信念を持って将来の発展の道を開き、交流活動を活発化し、友好の種を広く撒き、両国人民、特に青少年の相互理解と友誼を深め、中日友好の社会的基盤を強固にし、長期に安定した中日友好協力関係を発展させる新しい貢献作りを希望した。

 

橋本龍太郎等日中友好7団体の代表は、胡錦濤主席が忙しい中会見してくれたことに感謝し、それぞれの団体の対中交流計画を紹介し、日中関係が双方にとり極めて重要であり、民間友好団体として日中友好を引き続き堅持し、双方が各分野での交流と協力を積極的に進めることを表明した。

 

唐家璇国務委員と関係部門の責任者・宋健、利肇星、陳呉蘇、周強、黄晴宜、孫春蘭、万季飛などが会見に出席した。

 

日中友好7団体の代表は中日友好協会の招請にこたえ中日民間友好団体責任者会議に出席するため訪中した。 

 

 

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223 中国の三面記事を読む(12) 京都・奈良を空襲から守った中国人・梁思成 ④ もう一つの物語 《続》

粱思成先生的故事 中国住宅与房地产信息网2003-06-12  摘自建筑知识2003-01 王铭珍

梁思成は清末の変法維新(1898年)の指導者・梁啓超の長男。 清華大学教授、北京市都市計画委員会副主任、政治協商会議副主席を歴任。

天安門広場の人民英雄紀念碑の建築設計、中南海懐仁堂の修復や中華人民共和国の国章のデザイン設計などに中心的に関わった。

ある時、彼は学生達に笑いながら言った。 “諸君、私は今、背中が曲がりコブがあるけれど、昔はマーヨハン先生の一番弟子だったんだ! 有名なサッカー選手で、全校の運動会では棒高跳びでも一位。 鉄棒、平行棒などの腕前もずば抜けていたんだ。 ハハ、やめにしよう。 英雄は昔の自慢話を言わないものだ”

マーヨハン先生は清華大学体育部の有名な教授で、梁思成はマーヨハン先生の愛弟子でありスポーツ選手でもあった。 では何が原因で、梁思成先生は身体を壊し、背中が曲がりコブが出る障害を負ってしまわれたのか? 

学生時代の梁思成はオートバイが好きだった。 彼は卒業後アメリカへ留学しようと考えていた。 1929年5月7日、その日、天安門広場で学生運動が行われると聞き、オートバイに弟の梁思永を乗せ、清華大学を出発、西直門を抜け、四牌楼、西長安街を突っ走った。 その当時の西長安街は、現在のように広くはなく、真ん中はデコボコした道だった。 その時予想外のことが起こった。 オートバイが南長安街の南の入口にさしかかった時、後ろから来た自動車に追突され転倒してしまった。 梁思成は左足骨折、脊椎の骨も損傷を受けてしまった。 梁思永は顔面を負傷、顔中血だらけになっていた。 その当時の北京各紙は、この交通事故を大きく報道した。 事故を起こしたのは、軍閥・金永炎の運転手だった。 車は人をはねた後、現場から逃走した。 警察はこの車が軍閥の金永炎の所有で、事故が起こった時本人が車に同乗していたことを掴みながら、本件の容疑者を追及できなかった。 事故後、梁思成の家へ謝罪にも訪れず、思成の母親は怒って総統府へ乗り込み公正な対応を求めた。 その後軍閥の金永炎は、世論の圧力に押され副官を梁家に赴かせ謝罪した。 梁思成は負傷直後、協和医院で治療を受けたが、当時の医療技術や設備はまだ整っておらず、梁思成の脊椎の骨と足の手術はうまくいかなかった。 その結果、彼の脊椎の骨は彎曲し、背中が曲がり、左足は1センチ短くなってしまった。 その後、梁思成の靴は特注されることになった。

梁思成先生は気力のある方で、このような重い障害を負いながら各地の調査研究を続けられ、古代建築の測量と製図のため梁の上まで上ろうとされた。

梁思成 天寧寺に惚れ込む

梁思成先生は歴史的建造物の専門家で、以前にも仏塔も含めて多くの文化財の調査を行っている。 天寧寺は北京最古の寺の一つである。 北魏・孝文帝元年(西暦471年)に創建された。 彼は天寧寺に何度も訪れ、天寧寺の塔にも上り実地の測量をした。 寺内の仏塔は高さ57.8米で、国内外でも有名な舎利塔で文化財指定の価値がある。 彼の経験からすると、この仏塔は遼代に多く見られるもので、我国の他の省にもこれに似たスタイルが見られるという。 塔の上の方は庇が重なりあっていて、各層の距離は短く、2階以上の階層は下からはほとんど見ることができない。 第一層の塔は重要な部分で、大体は仏壇で、仏像や窓枠、軒を支える枡組み、動植物の模様などの彫刻が施され、仏教と建築芸術が渾然一体となっている。 これらから、梁思成先生は天寧寺は遼時代に建造されたと断定した。 この判断は我国考古学の専門家達も一致して認めている。

天寧寺に関しては歴史文献では隋の建造とされてきた。 乾隆皇帝さえも天寧寺は、隋代の建築との言葉を残されている。 梁先生の考証によれば、天寧寺はもともとは確かに隋代の仏塔があった。 しかし、隋代の仏塔は木造の仏塔で防火対策がされていなかった。 その後、火事のため木造の仏塔は焼けてしまった。 遼代になってこの基礎の上に、レンガ造りの仏塔が再建された。 防火能力が強化されたので、その後の何度かの火災にあっても仏塔はビクともしなかった。 しかし仏塔付近の仏殿、経蔵などは焼けてしまった。 “長安客話”という本の中に、“寺は元末に戦乱で焼けつくす”と書かれている。 元代の終わりの頃、天寧寺が戦火で焼けた記録である。 梁思成先生は、天寧寺のことがことのほか気に入られ、天寧寺には音楽の音符のような仕組みがある、古代建築設計の傑作だ。

法隆寺焼失を惜しむ

梁思成先生は、小さい時日本で十数年生活しておられ、日本の古い建築物の状況についても詳しかった。 ある時、新聞のニュースが目に留まった。 日本の千年の古刹・法隆寺が火災により全て焼失したと報じていた。 彼はとても残念がった。 

日本の友人・清水正夫が中国を訪れ梁思成に会いに来た時、彼は矢も盾もたまらず訊いた。 “法隆寺は完全に焼き落ちたのですか? 修復の可能性はないんですか?” 清水正夫は“なんとか修復できるでしょう”

梁思成はそれを聞いてホッとした。

数年後、清水正夫がまた訪中した。 梁思成先生は彼が泊まっていた北京飯店を訪れ、また法隆寺金堂の修復問題について訊ねた。 清水正夫が、法隆寺金堂はもう完全に修復され、しかも焼け残った木材も使用していると言った時、梁先生は非常に喜んだ。 “火事の痕跡を残していたら、後の人への警告になる” 

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222 中国の三面記事を読む(11) 京都・奈良を空襲から守った中国人・梁思成 ③ もう一つの物語

梁思成“じゅうたん爆撃”から奈良を救う

2006-03-30 20:12:33 粱思成力保奈良免予地毯式轰炸日本人感激

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梁啓超の長男・梁思成は世界にも名の通った優れた建築家である。 60年前、反ファシスト戦争勝利を目前にした時、彼も日本の侵略行為で身を切られる思いをした中国人であるが、東洋の古代建築という人類文化の至宝を焼滅させてはならないと敢然と立ち上がり、アメリカ軍が京都、奈良などの古都を爆撃するのを阻止した。

《当代作家》双月刊第3期に陳宇、王帆がノンフィクション文学作品としてこのよく知られた話を紹介している。

北平(北京)陥落後、梁思成と林徽因夫婦は、いわゆる“東亜共栄協会”の勧誘から逃れるため、天津、青島、武漢を転々とし、四川南渓県李庄の誰も住んでない尼寺にやっと落ち着いた。 

ある日梁思成は思いがけない電報を受け取った。 それは妻・林徽因の飛行兵だった弟が、日本との空中戦で亡くなったため親族へ葬儀を知らせる通知だった。 梁思成は病気で床についている妻が、ショックに耐えられないと思い、重慶に用事ができたと偽り、重慶経由で成都に行った。

その当時の重慶は、日本軍からの爆撃をしょっちゅう受けており、梁思成は目の前の惨状に呆然とした。 至る所鮮血と死体、人々は焼け跡の瓦礫の中を逃げ惑っていた。 爆撃で死んだ赤ん坊を抱きながら大声で泣き叫んでいる女の人もいた---------彼は日本の爆撃機を指差し、憤然と叫んだ。 “こんな非道なことをしていたら今に自滅する。 いつか日本も同じ目に遭うぞ!”

果たして、戦局は急展開した。

アメリカ軍は最終勝利を目指し“じゅうたん爆撃”で鳴らしたルメイ将軍を太平洋戦線に送り込み、日本を集中的に攻撃した。 1945年8月まで日本の119の都市が爆撃された。 喜んだのは束の間で、梁思成は憂鬱になった。 世界の建築史に長年かかわってきた彼には、日本の奈良、京都には沢山の古代の建築の秘宝があることを知っている。

そのうちの奈良の唐招提寺は、鑑真和尚が指導し設計したもので、中国唐代の木造建築物としてはめったにない実物なのだ。 爆撃されてしまったらとんでもないことになる。

梁思成はまた重慶に向かった。 アメリカ軍総司令部は重慶の上清寺にあった。 梁思成がブロンソン大佐の事務室を訪ねた時、大佐は留守だった。 彼は暫く椅子に坐っていた。 ふと雑然とした部屋の中に顔のない石膏像が立っているのが目に入った。 よく見るとガラスケースの一番上にも石膏像が置いてあった。 こちらは五体ちゃんとしており欠けた部分はない。 それに出土した時にできた色も残っていた。 ケースには鍵が掛かっており、明らかに大事にしていることがわかる。 梁思成は暫く詳しく見ていたが、顔のない石膏の方を指さして、“ケースの中の像は完全だけど、芸術的価値ではこっちの像には及ばない。 入れ替えた方がいいな”

大佐は副官の口から梁思成の評価を知り、彼を呼んでその理由を訊ねた。

梁思成は臆することなく堂々と、“古いギリシャの彫塑家は、総体美を重要視しました。 この女神の身体の各部分は完全に人体の構造と同じで、しかも生命の息吹を感じます。 その服の下からは肌の動き、血管の脈動さえ感じます。 全体から見ると顔はなくともすばらしいものです。 こちらの像は、全体は揃っており一般的には立派です。 でも力の表現がありません。 これは芸術の場合一番いけないことです!”

梁思成のこの話に、ブロンソン大佐は立ち上がり感激して言った。

“梁先生は中国と西洋の学問に通じていらっしゃる。 さすが建築芸術の大家ですな”  ここぞとばかりに梁思成は持ってきた地図を開けると、“ここが奈良、ここが京都、ここには大切な建築物があります。 なんとしても爆撃は避けてください-----------”   そしてまた別の地図に換えると指で示しながら、“ここと、そこも-----------”

ブロンソンは彼の話を遮り、両手を広げながら困ったように言った。

“これでは爆弾を落とせなくなってしまう! あなたは学者だから感情でものをおっしゃるが、これでは戦機を失ってしまいます!”

“もし私個人の感情からいうなら、わが国の人々の苦しみを思えば、日本をなんとしても爆撃したいです” 梁思成の顔は苦しみでひきつっていた。 “でも一種の職業意識と歴史的責任感でしょう、私を冷静にさせました。 建築は「社会の縮図」であり「民族の象徴」なのです。 それは決して一民族のものではなく全人類の宝です。 例えば奈良の唐招提寺は、全世界で最も早くできた木造建築です。 一旦、爆撃してしまったら取り返しがつきません”

ブロンソンは黙って聞いていた。 そしてタバコを深く吸った。 彼は二つの石膏を見比べ、また机に広げられた地図を見ながら、ついに口を開いた。 “梁先生、ごもっともなご意見だと思います。 しかし今、太平洋戦争の大事な時です。 あなたのご提案を将軍に申しあげて見ましょう” 梁思成は喜んで前へ進むと、あわてて口をどもらせながら、“この件は一刻も猶予できません。 ど、どうか--------ぜひとも  ---------” ブロンソンはちょっとからかうように言った。 “そんなに急いでいらっしゃるが、もし、私に会えなかったら?” “ルーズベルトに会いに行きます” 梁思成は笑って言った。

梁思成の提案はすぐ将軍のもとに報告された。 将軍は長い時間を掛けて梁思成の報告と地図を詳しく調べた。 ほかの人からも同様の提案があったが、いずれも梁思成の報告のようには、彼を感動させ納得させなかった。 将軍は梁の提案を採用した。 空軍には即座に指示が通達

された。

大爆撃の中、幸いにも難を逃れた奈良は、多くの古代建築を無事保存することができ、国際文化観光都市を宣言した。 奈良が命名30周年の記念日に、《朝日新聞》は、“日本の古都の恩人梁思成氏”という特集を載せた。

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