188 中国は見る(91) 日本の切腹について
武士の切腹について
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武士が切腹して自ら命を絶つ、この自己犠牲的な勇敢な精神に筆者は敬意を抱いている。 中国では、日本の武士がなんで切腹するのか知る人は少ないと思う。 そこで以下の事例を紹介したいと思う。 日常生活の中で血なまぐさい世相に慣れた読者の方々には、そんなことあるものかと驚かれぬよう心して見ていただきたい。
日本語の中には、“腹を割る”《割腹―自分の考え・本心を隠さず、ありのままに言う》とか“腹を切る”《切腹―死ぬために自分で自分の腹を切る、から比喩的に、失敗の責任をとって仕事をやめる》といった慣用語がある。 これから見て取れるように“腹を割る”のもともとの意味は潔白を表明することだ。
日本の武士が切腹するようになったのは9世紀頃に遡ることが出来る。 12世紀頃からは上級武士が自分の恥辱を晴らす唯一の方式として切腹を行うようになった。
赤穂浪士の四十七士が、主君の仇を討つため、屈辱に耐え忍耐の末、仇の吉良上野介の邸へ討ち入り、吉良の首を斬り落とし、主人浅野内匠頭の墓前に供えた。 その後、1703年1月30日、みな揃って従容として切腹して果てた。
切腹が現代の日本でもなお言葉として残っているのは、前述の実際の話のお芝居が1748年に“忠臣蔵”として書かれたことが大いに貢献しているようだ。 この芝居は多くの日本人に、侮辱を受けたら必ず報復する、主君には忠義を、苦労の末の仇討ち、切腹のいさぎよさを大いに称賛したものだ。 特に四十七人の武士達が復讐を遂げた後、江戸(現在の東京)の人々から歓呼の声で迎えられたことは、日本の社会の悪を憎む正義感の表れでもあった。
その後1868年に、西洋人が日本の武士道精神に驚かされたことがあった。
当時は、明治元年で日本では鎖国と尊皇攘夷論がまだ盛んだった頃だ。
その年の2月、四国土佐藩の堺港に、フランスの戦艦一艘が誤って入港した。 日本の警備隊長箕浦猪之吉と西村佐平次が兵を連れ立ち向かった。 事件発生後、フランス公使ロッシュは日本政府に厳重な抗議をした。 日本政府は即座に命令を下し、箕浦、西村及び兵卒計20人を各国使節の面前で切腹させることにした。
切腹用の土壇を築き、日本側は久世少将、伊達少将が立会いに出席した。 フランス、イギリス等各国使節団20人も出席見守った。 最初に登壇したのは25才の箕浦。 彼は怒った目付でフランス人に向かい、“にっくきフランス人、武士魂を見せてやる!”と言って、“十文字”に腹をかき切った後、はらわたを掴み取ると各国使節団に向かって放り投げた。 二番目は24才の西村。 彼の切腹は“一文字型”、即座に“介錯人”が首を切り落とした。 その後、順番に一人一人壇上に上がり切腹した。 12人目になった時、西洋の使節団達はびっくりして声も出ない有様、ぶるぶる震え日本側に中止を要求し、その場からみんな逃げ去った。 残った9人の切腹は取りやめになった。
この“堺事件”は、世界的にセンセーションを巻き起こした有名な事件である。
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Comments
you care a lot about china, er ?
Posted by: | June 29, 2008 at 01:28 PM